今日は次男が初めて中学校に登校していきました。学校が遠いので、朝7時前に家を出ます。
4年前に日本に帰ってきたとき、子供達はまだ2人とも小学生でしたが、我が家は仕事の事情で一人親家庭ですから、仕事との板挟みで本当に厳しいときがありました。(アメリカでも子どもと3人暮らしという点では変わりませんが、労働時間および仕事の責任が全然違いました。)その頃から、2人がそろって中学高校になったら、おそらく一つ壁を越えるだろうと期待してきました。
今日、朝7時に自分一人残った自宅で、たぶんこれまで感じたことのないほどの満足感、達成感、そして自由になったうれしさがありました。長く想像してきましたが、これほどに開放されるとは。今日という日を一生忘れたくないと思いましたね。
次男が生まれた年、私はほぼ無職状態にありました。大学で研究生をしながら、非常勤講師として働き、また、翻訳の仕事などもしていましたが、経済的な自立状態にありませんでした。その私が研究の仕事を続けられたのは、まだ次男がゼロ歳の時に申請した学振のPDに採用されたことが大きいです。その申請書を書いていたとき、次男がはしかにかかり、おんぶしたまま書類を書いたり印刷したりしたことを思い出します。その後もずうっとそんな崖っぷちを歩いてきました。
もちろんまだまだ母親業は続きます。しかし一歩踏み出しました。
これまで精一杯やってきたことへの満足、そしてこれからの仕事への期待。
本当にうれしい、春の一日です。
4年前に日本に帰ってきたとき、子供達はまだ2人とも小学生でしたが、我が家は仕事の事情で一人親家庭ですから、仕事との板挟みで本当に厳しいときがありました。(アメリカでも子どもと3人暮らしという点では変わりませんが、労働時間および仕事の責任が全然違いました。)その頃から、2人がそろって中学高校になったら、おそらく一つ壁を越えるだろうと期待してきました。
今日、朝7時に自分一人残った自宅で、たぶんこれまで感じたことのないほどの満足感、達成感、そして自由になったうれしさがありました。長く想像してきましたが、これほどに開放されるとは。今日という日を一生忘れたくないと思いましたね。
次男が生まれた年、私はほぼ無職状態にありました。大学で研究生をしながら、非常勤講師として働き、また、翻訳の仕事などもしていましたが、経済的な自立状態にありませんでした。その私が研究の仕事を続けられたのは、まだ次男がゼロ歳の時に申請した学振のPDに採用されたことが大きいです。その申請書を書いていたとき、次男がはしかにかかり、おんぶしたまま書類を書いたり印刷したりしたことを思い出します。その後もずうっとそんな崖っぷちを歩いてきました。
もちろんまだまだ母親業は続きます。しかし一歩踏み出しました。
これまで精一杯やってきたことへの満足、そしてこれからの仕事への期待。
本当にうれしい、春の一日です。