中日新聞愛知県版の投書欄は、毎週金曜日は小中学生専用となる。大人の意見も子どもの意見も、似たり寄ったりの投書しか掲載されないから、なぜ子ども専用の日があるのか分からない。(大人の投書だって子ども並みの発想のものしか載せてもらえない。)
それはさておき昨日は子供専用で、ある中学生の「日記を書くのは面倒になるが、頑張って続ける」との投書が掲載されていた。
多くの人にとって毎日日記をつけるのは大変なことらしい。そして、日記を続けている人はいくらか尊敬されるようだ。
ところが、日記を毎日つけるのは、私には病的な行為に思える。日記なぞ投げ出してしまうのが健康的な精神の持ち主である。
実は私は学生時代から10年以上、毎日欠かさず日記をつけていた。途中ブランクがあって、40代からまた日記をつけ始め、これも10年以上続いた。
わが身を振り返ってみると、日記をつけていた時期は精神的に危うい期間だった。「頑張って日記をつける」のではなく「精神的につらくて記録せざるをえない」から毎日続けていたのだと思う。
今は健康的だから、私は日記をたまにつけるだけで、毎日は続けていない。いや、このブログを欠かさず続けているから、日記を書かずに済んでいるのかもしれない。もしかすると、ブログを何年も欠かさずに書くというのは、それ自体病的な行為かもしれない。
一日分は200字足らず。起床時刻、天気、何を食べたか。誰とどこへ飲みに行ったか。見た映画や読んだ本の題名・感想。新聞やテレビへの突っ込みなど、書くことはいっぱいあります。同じページに過去の同じ日のことが書いてあるので、何かと便利でつい読みふけることもあります。俳句を始めてからは、彼岸花の芽が出た日、金木犀の香り始めた日、モズが鳴いた日なども気になって書き留めています。
職場の出来事も備忘録として書いていますが、これは何かトラブルがあった時などに記憶を確認するために極めて実用的でした。
泥酔して帰宅した日の文字は、後で読めないことがありますが、それでも忘れずに書いているので我ながら感心します。むしろ、なんでもない日なのに書き忘れることがあります。翌日書こうとすると、昨日のことなのに何を食べたか何をしたのか誰に会ったのかなど、なかなか思い出せないことが多くなりました。でも、何とか思い出して書けた時の快感もいいものです。
日記は万年筆で書きます。大学ノートに黒インキ。毎日200字足らずでも、キーボードを用いずに文章を書くことは、車に乗らずに歩くことのように、なんだか体に良いことをしている心持になります。
私が死んだあとに妻子にこの日記を読まれたら恥ずかしいなとも思いますが、まぁ、ここまで続いたのだから、死ぬまで書き続けるしかないのかなと思っています。