昨日『金を積まれても使いたくない日本語』を紹介したが、私には「金を積まれてもやりたくない行動」がある。それを列記しよう。
・電車には必ず出入り口に立っている人がいる。乗降客にとって邪魔で仕方がない。他の場所が空いていても、そこに立っているのだ。彼らはどうもその場所が大好きなようである。(つまり、私は電車の出入り口に立ちたくない。)
・男性老人の野球帽が見苦しいとは、前にこの欄に書いた。中には外食の店でも、野球帽をとらない老人がいる。さらに、結構高い寿司屋のカウンターでも帽子をとらない老人がいる。並んで食べていると寿司おいしくない。(つまり、私は老いても野球帽をかぶりたくない。かぶっても室内では脱ぎたい。)
・初対面の人に対してマスクを外さない人がいる。昔、地域の保健師がかかえている患者さんが、ちょうど私の担当で、その患者さんについて情報が欲しいとその保健師が面会を求めてきた。私は時間を約束してその保健師と会ったが、彼女は終始マスクをとらなかった。こちらから「外せ」とは言いにくかった。そのため、次回の面会は断った。(つまり、私は人と会うときにはマスクを外したい。)
(画像と記事とは関係ありません。)
(患者さんにも診察室でマスクを外さない人がいる。表情を見るのは診察の第一歩だから、「外してくれ」と言う。内科でもそのような患者さんが多いらしく、いちいち言うのがストレスになり内科医が困っている。)
・電車には必ず出入り口に立っている人がいる。乗降客にとって邪魔で仕方がない。他の場所が空いていても、そこに立っているのだ。彼らはどうもその場所が大好きなようである。(つまり、私は電車の出入り口に立ちたくない。)
・男性老人の野球帽が見苦しいとは、前にこの欄に書いた。中には外食の店でも、野球帽をとらない老人がいる。さらに、結構高い寿司屋のカウンターでも帽子をとらない老人がいる。並んで食べていると寿司おいしくない。(つまり、私は老いても野球帽をかぶりたくない。かぶっても室内では脱ぎたい。)
・初対面の人に対してマスクを外さない人がいる。昔、地域の保健師がかかえている患者さんが、ちょうど私の担当で、その患者さんについて情報が欲しいとその保健師が面会を求めてきた。私は時間を約束してその保健師と会ったが、彼女は終始マスクをとらなかった。こちらから「外せ」とは言いにくかった。そのため、次回の面会は断った。(つまり、私は人と会うときにはマスクを外したい。)
(画像と記事とは関係ありません。)
(患者さんにも診察室でマスクを外さない人がいる。表情を見るのは診察の第一歩だから、「外してくれ」と言う。内科でもそのような患者さんが多いらしく、いちいち言うのがストレスになり内科医が困っている。)
私は院長のこれらの意見に全面的に賛成なので、いつも胸のすく思いで読んでいる。今度はいつまた野球帽のことを書いてくれるのかなと、楽しみにもしている。そこで、なぜ野球帽が嫌いなのか、私も考えてみた。
野球帽は制帽である。日除けや防寒という帽子本来の目的ではなく、所属を識別するためにかぶる。野球選手、軍人、消防士、宇宙飛行士などが、所属チームを明らかにするために用いるものだ。それを白髪や禿のジイ様がかぶるものだからおかしなことになった。いや、ジイ様だけではない。若い男がかぶっても馬鹿っぽく見える。野球帽が似合うのは子供だけだ。男の子にとっては、野球帽をかぶる職業はあこがれの対象だから、子供が喜んでかぶるのは当然で、可愛いものだ。
私は禿げているから、夏は日除けに、冬は防寒のために帽子をかぶる。顔がおにぎり型で頭が大きいから、帽子は似合わない。とくに野球帽は絶望的に似合わない。鏡を見ればわかる。そこで、夏は柔らかい布でできた周囲に鍔のあるハット型の帽子を、冬は耳の半分まで隠れる毛糸のニット帽を愛用している。
院長も指摘しているが、野球帽をかぶった輩は、食事をする時も映画を見る時も新幹線のグリーン車に乗る時も、絶対に帽子をとらない。年明け2日に昼食をとった羽田空港のレストランには、野球帽をかぶったまま家族と食事をする男が3人いた。野球帽がムシャムシャ食べているのを見ているとメシがまずくなるのでなるべく見ないようにしたが、結局、見回して何人いるか数えてしまった。私の野球帽嫌いも大したものだ。
なぜ彼らは野球帽を脱がないのか。日除けや防寒のための帽子なら、室内や車内では不要だからとるだろう。野球帽は、「野球帽をかぶっているカッコいい自分」であることを自分で識別するためにかぶっているので、「脱いでしまったら自分でなくなる」という不安感があると見た。厄介な帽子である。
Hda さんも老人の野球帽がお嫌いとは、Hda さんとはほんとに趣味が合いますね。
大阪のあいりん地区には野球帽をかぶらないと入りにくいそうです。かぶっていないと、すぐによそ者と分かってしまう。あいりん地区の住人は、わざとみすぼらしくすることにアイデンティティを見つけているのでしょうかね。