哲学の道をとぼとぼと、の三日目です。
西田幾多郎がのびのびと歩き、思惟にふけったこの桜並木を「哲学の道」と
呼ぶのは皆様ご承知の通りですが、桜並木だけにこの時期は枯れ木道です。
その枯れ木道のてっぺんからちょっと外れると、銀閣のある慈照寺に着きます。
写真の通り、晴天で眺めはとってもよかったのですが、慈照寺の銀閣は
ただいま修繕中、終わるのは来年の頭頃になりそうです。
私は銀閣派(そんな派閥があるかどうか知りませんが)なので、
本堂の縁側に腰掛けて向月台の庭をぼーっと眺めるのが好きなのですが、
修繕のために壁やらなにやら剥がされて、さっぱりした銀閣もよいなと思います。
それは、銀閣が、たたずまいのシルエットが美しく見えるよう
作られていることが分かるからです。
「向月台」や銀色の砂庭「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は、光に当たった時、
他の枯山水よりもぎらぎらに輝くよう出来ています。(主観ですが)
裏手の山も、見下ろしたときこじんまりと、砂庭と銀閣が同時に見えるよう
道が作られています。
白と、黒のコントラストが建物と砂地で出来上がっている。
これはつまり、夜に観るための庭ではないでしょうか。
童話の「ヘンゼルとグレーテル」のヘンゼルは、夜月の光を反射する
白い小石を目印に家へ帰ります。
日の光であれだけ輝く銀閣の砂庭なら、きっともっと光るでしょう。
銀閣のディテールは消え、影だけがべったりと背景に、
砂がまさに「月を向える」支度をするわけです。
そう思うと、池が小さくて、砂庭を大きく取るのも分かる気がします。
銀という色は、白にも黒にも通じる色なので、「銀閣」の名はほんとうに、
ぴったりかと思います。
慈照寺から哲学の道をとぼとぼおりてゆくと、脇に寺社がちらほらと
並んでいて意外に、寄り道が出来ます。
歩いて五分ほど、橋が立派になったあたりで「法然院」への道が見えてきます。
脇道へ入って見上げると、坂。
山寺です。ほんとに山寺です。
枯葉の季節に来たらたぶん泣くほど綺麗だとおもいます。
苔の具合もちょうどいい山門は茅葺、銀沙の壇を両脇に入る、ここだけで
しみじみとしてしまいます。傍の経堂で、変な外人が和服を着て
音楽をかけて何かやっていたのが気になりましたが。
障子の穴からのぞいたら、観光客ぽいひとがすごくいづらそうに、
出るきっかけを失ったように座っていたので怖くて入れませんでした。
なんだったのでしょう。
西田幾多郎がのびのびと歩き、思惟にふけったこの桜並木を「哲学の道」と
呼ぶのは皆様ご承知の通りですが、桜並木だけにこの時期は枯れ木道です。
その枯れ木道のてっぺんからちょっと外れると、銀閣のある慈照寺に着きます。
写真の通り、晴天で眺めはとってもよかったのですが、慈照寺の銀閣は
ただいま修繕中、終わるのは来年の頭頃になりそうです。
私は銀閣派(そんな派閥があるかどうか知りませんが)なので、
本堂の縁側に腰掛けて向月台の庭をぼーっと眺めるのが好きなのですが、
修繕のために壁やらなにやら剥がされて、さっぱりした銀閣もよいなと思います。
それは、銀閣が、たたずまいのシルエットが美しく見えるよう
作られていることが分かるからです。
「向月台」や銀色の砂庭「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は、光に当たった時、
他の枯山水よりもぎらぎらに輝くよう出来ています。(主観ですが)
裏手の山も、見下ろしたときこじんまりと、砂庭と銀閣が同時に見えるよう
道が作られています。
白と、黒のコントラストが建物と砂地で出来上がっている。
これはつまり、夜に観るための庭ではないでしょうか。
童話の「ヘンゼルとグレーテル」のヘンゼルは、夜月の光を反射する
白い小石を目印に家へ帰ります。
日の光であれだけ輝く銀閣の砂庭なら、きっともっと光るでしょう。
銀閣のディテールは消え、影だけがべったりと背景に、
砂がまさに「月を向える」支度をするわけです。
そう思うと、池が小さくて、砂庭を大きく取るのも分かる気がします。
銀という色は、白にも黒にも通じる色なので、「銀閣」の名はほんとうに、
ぴったりかと思います。
慈照寺から哲学の道をとぼとぼおりてゆくと、脇に寺社がちらほらと
並んでいて意外に、寄り道が出来ます。
歩いて五分ほど、橋が立派になったあたりで「法然院」への道が見えてきます。
脇道へ入って見上げると、坂。
山寺です。ほんとに山寺です。
枯葉の季節に来たらたぶん泣くほど綺麗だとおもいます。
苔の具合もちょうどいい山門は茅葺、銀沙の壇を両脇に入る、ここだけで
しみじみとしてしまいます。傍の経堂で、変な外人が和服を着て
音楽をかけて何かやっていたのが気になりましたが。
障子の穴からのぞいたら、観光客ぽいひとがすごくいづらそうに、
出るきっかけを失ったように座っていたので怖くて入れませんでした。
なんだったのでしょう。