:「恋の中国文明史」ちくまライブラリー90 1992年 張競著
訳者のいない本です。
そのためか日本語がまだ固い印象を受けました。
作者の張競は、れっきとした上海生まれの中国人です。
ですが、日中比較文化論を学ぶために渡日し、東京大学大学院で
学問を修めました。
今手元にある彼の本は「恋の中国文明史」と
「中華料理の文化史(ちくま新書・1997年)」の二冊ですが、
どちらもしっかりした日本語で論じられています。
さて、本書はこんな問題から始まります。
『中国では恋を表現するのに固有のことばがなかった。』
恋、という情感自体の定義が言葉がないので出来ません、という衝撃。
作者はここを、恋の定義ではなく、男女の付き合い方の変化、という視点から
当時の文化を追いかけるという姿勢を取って論じています。
追いかける範囲は、紀元前「詩経」から近代、
文革はアウトなので魯迅までの近代。
これだけでも3000年近い壮大さです。
まずベースとなるのは、親が支配する婚姻の論理です。
親が相手を決める結婚には、当人同士の自由意志が介在しません。
結婚というシステムの占める比重は、結局、かなり近い時代まで、
中国の文化の中では一歩も変化しなかったのです。
基本的に恋愛と呼べる感情は閨房の中ではぐぐまれる、
「才子佳人式」と呼ばれるスタイル自体はずっと変化しません。
中原で保ち続けるスタイルの一方で、異民族の進入、
彼らの中原文明への同化が、ゆっくりと漢民族の性格を変えていった。
特に1279年のモンゴル族=つまり非漢族の王朝、元が、落とした影響について
作者は重要視しています。
モンゴル人が持ち込んだものは、男女が席を同じゅうする、
ふつうの男女が一緒にお祭りや劇に行ったりする、混交の自由さでした。
異民族が異民族として、初めて自分の力を手に入れたからこそ、民衆への
文化の同化が高まった、こうしたキーとしてモンゴル族の侵入がある、
と位置づけています。(読みが浅ければ申し訳ありません)
ただなんというか、日本で言う「純愛文学」というものは、とうとう
最後まで現れませんでした。
二葉亭四迷の「浮雲」のように、未婚の男女のこまごました
恋愛感が出てきても、やっぱりその背後に、親が支配する結婚の概念が
見え隠れする。
そこには、最強の異民族侵入、欧米文化の吸収/非吸収が関わっている、
と締めくくります。
この終章のタイトルが、
「恋愛の発見」
ですから、なんとも晩生な文化なのかも知れません。
訳者のいない本です。
そのためか日本語がまだ固い印象を受けました。
作者の張競は、れっきとした上海生まれの中国人です。
ですが、日中比較文化論を学ぶために渡日し、東京大学大学院で
学問を修めました。
今手元にある彼の本は「恋の中国文明史」と
「中華料理の文化史(ちくま新書・1997年)」の二冊ですが、
どちらもしっかりした日本語で論じられています。
さて、本書はこんな問題から始まります。
『中国では恋を表現するのに固有のことばがなかった。』
恋、という情感自体の定義が言葉がないので出来ません、という衝撃。
作者はここを、恋の定義ではなく、男女の付き合い方の変化、という視点から
当時の文化を追いかけるという姿勢を取って論じています。
追いかける範囲は、紀元前「詩経」から近代、
文革はアウトなので魯迅までの近代。
これだけでも3000年近い壮大さです。
まずベースとなるのは、親が支配する婚姻の論理です。
親が相手を決める結婚には、当人同士の自由意志が介在しません。
結婚というシステムの占める比重は、結局、かなり近い時代まで、
中国の文化の中では一歩も変化しなかったのです。
基本的に恋愛と呼べる感情は閨房の中ではぐぐまれる、
「才子佳人式」と呼ばれるスタイル自体はずっと変化しません。
中原で保ち続けるスタイルの一方で、異民族の進入、
彼らの中原文明への同化が、ゆっくりと漢民族の性格を変えていった。
特に1279年のモンゴル族=つまり非漢族の王朝、元が、落とした影響について
作者は重要視しています。
モンゴル人が持ち込んだものは、男女が席を同じゅうする、
ふつうの男女が一緒にお祭りや劇に行ったりする、混交の自由さでした。
異民族が異民族として、初めて自分の力を手に入れたからこそ、民衆への
文化の同化が高まった、こうしたキーとしてモンゴル族の侵入がある、
と位置づけています。(読みが浅ければ申し訳ありません)
ただなんというか、日本で言う「純愛文学」というものは、とうとう
最後まで現れませんでした。
二葉亭四迷の「浮雲」のように、未婚の男女のこまごました
恋愛感が出てきても、やっぱりその背後に、親が支配する結婚の概念が
見え隠れする。
そこには、最強の異民族侵入、欧米文化の吸収/非吸収が関わっている、
と締めくくります。
この終章のタイトルが、
「恋愛の発見」
ですから、なんとも晩生な文化なのかも知れません。