:岩波書店「みそっかす」 幸田文作
女流作家で最も好きな作家を挙げよ、といわれたらまず、
名前が候補として挙がるのが幸田文です。
もう一人は武田百合子。
どちらも甲乙付けがたい随筆(幸田文のほうは小説も書いているけれど)を
書く人です。
武田百合子は、感覚でものを書く。感覚をそのまま言葉にする、
語感も五感もとても大切にする人です。
これは、「ことばの食卓」の「牛乳」から、
『牛乳を飲んでから、お風呂に入ったら、むっとこみ上げてきて、湯船の中を
白濁させたので、湯上りに飲むようになったのけれど、それでも、やっぱり、
むっとする。やっとのことで飲み干したあとも、しばらくは、のろのろと、
湯呑の馬の絵を指でなぞったりなどしている。』
句点が多いので、横書きでは少々読みづらいと思います。
これが縦書きで、音読をしてみるとちょうど良くなるので不思議です。
いっぽうで、幸田文の描写は、非常にストレートで素直。
「みそっかす」は、幼児期から小学校卒業までの、家族の思い出を
書き並べた、初期の随筆ですが、後の「流れる」に続くような
描写の正確さは、人物像や景色どちらにも傾かずに丁寧です。
たとえば、「湯の洗礼」の冒頭。
『眼が覚めた。父はたたきつけるように詩を吟じているし、聞きなれない、
しかし明らかに金物のちんちんという音が拍子をとっている。
暗い寝室のなかへ一本、光の縞が切り込んでいる。唐紙の親骨のしめあわせが、
ほんの少しずっている。』
ものを連載するために、初めて筆をとったぎこちなさよりも、
描写の率直さがすなおにこちらの眼に届く文体です。
あまり心理を深く切り込まない代わりにこうした描写が細かくて細かくて、
視点の動きから心を読ませることの出来る、
ある意味とても主観的なカメラで幸田文は思い出をつづっています。
幸田文は生母と死に別れ、父の幸田露伴は再婚をします。
父と継母、二人はなかなかうまくゆかない。
その頃の幼い幸田文の意地と弱さ、
不器用な遠慮の仕方、誤解、
すべて客観的に大人の幸田文は書いていながらも、
読みすすめてゆくと、そうでもなくて、今もかわらず、その時のかなしさを
かなしい、と思って文に出来る人なのだとわかります。
『なぜ、大人の世界と子供の心のなかには誤差ができるのだろう』
こういうことばをほろりとこぼします。
そんなこぼした言葉を拾い集めてゆくと、「みそっかす」には、
思った以上の感情がつめられていて、ひどく心を動かされる本でした。
同じような、もっと辛い悲しみを、ここまでとつとつとかける人がいるなら、
もう書くことなんて無いんじゃないか、そう思いました。
女流作家で最も好きな作家を挙げよ、といわれたらまず、
名前が候補として挙がるのが幸田文です。
もう一人は武田百合子。
どちらも甲乙付けがたい随筆(幸田文のほうは小説も書いているけれど)を
書く人です。
武田百合子は、感覚でものを書く。感覚をそのまま言葉にする、
語感も五感もとても大切にする人です。
これは、「ことばの食卓」の「牛乳」から、
『牛乳を飲んでから、お風呂に入ったら、むっとこみ上げてきて、湯船の中を
白濁させたので、湯上りに飲むようになったのけれど、それでも、やっぱり、
むっとする。やっとのことで飲み干したあとも、しばらくは、のろのろと、
湯呑の馬の絵を指でなぞったりなどしている。』
句点が多いので、横書きでは少々読みづらいと思います。
これが縦書きで、音読をしてみるとちょうど良くなるので不思議です。
いっぽうで、幸田文の描写は、非常にストレートで素直。
「みそっかす」は、幼児期から小学校卒業までの、家族の思い出を
書き並べた、初期の随筆ですが、後の「流れる」に続くような
描写の正確さは、人物像や景色どちらにも傾かずに丁寧です。
たとえば、「湯の洗礼」の冒頭。
『眼が覚めた。父はたたきつけるように詩を吟じているし、聞きなれない、
しかし明らかに金物のちんちんという音が拍子をとっている。
暗い寝室のなかへ一本、光の縞が切り込んでいる。唐紙の親骨のしめあわせが、
ほんの少しずっている。』
ものを連載するために、初めて筆をとったぎこちなさよりも、
描写の率直さがすなおにこちらの眼に届く文体です。
あまり心理を深く切り込まない代わりにこうした描写が細かくて細かくて、
視点の動きから心を読ませることの出来る、
ある意味とても主観的なカメラで幸田文は思い出をつづっています。
幸田文は生母と死に別れ、父の幸田露伴は再婚をします。
父と継母、二人はなかなかうまくゆかない。
その頃の幼い幸田文の意地と弱さ、
不器用な遠慮の仕方、誤解、
すべて客観的に大人の幸田文は書いていながらも、
読みすすめてゆくと、そうでもなくて、今もかわらず、その時のかなしさを
かなしい、と思って文に出来る人なのだとわかります。
『なぜ、大人の世界と子供の心のなかには誤差ができるのだろう』
こういうことばをほろりとこぼします。
そんなこぼした言葉を拾い集めてゆくと、「みそっかす」には、
思った以上の感情がつめられていて、ひどく心を動かされる本でした。
同じような、もっと辛い悲しみを、ここまでとつとつとかける人がいるなら、
もう書くことなんて無いんじゃないか、そう思いました。