:岩波文庫 『柳宗悦随筆集』柳宗悦著 水尾比呂志編 1996
生まれる時が早すぎた人は大勢いる。
柳宗悦も、そうした人の独りだったかも知れない。
でも、あの時代に彼が生まれていて良かったとも思う。
彼は芸術家でも、工芸家でもなかった代わり、行動する思想家だった。
だから、みなの心底に通じる思いを言葉にして、訴えることができたのだ。
彼の仕事は日本民藝館となって、駒場東大の近くにひっそりと雄雄しく
立っている。日本のかつての心をめいっぱいに集めて。
こんな仕事が出来たのは、この人があの時代に生まれていたからで、
そう思うと、やっぱりあの時代でよかったのかな、と思う。
柳宗悦の思うことはそんなにむつかしいことではない。
ただ、まとめるのが非常にむつかしいのだ。
「つまるところ」がつかえない。
どんな思想家でもそれはそうなのだが彼の場合、ものがからんでくる分
もうすこしむつかしくなっている、と思う。
随筆は、とてもストレートに柳の思いを語っている。
断片みたいなもので、中には女性に向けて語ったものもあったり、
啓蒙したり、考えたりとまじめな柳が見えてくる。
ちょっとお説教ぽくて堅苦しい。
たとえば一文「野口シカ刀自の手紙――野口英世博士へ与えた母の手紙――」
の中で、野口シカという無学の老婆が書いたたどたどしい筆跡を彼は
美しい、
と思い、それは確かに、胸を打つ美を持っていることを、
ここまで柳の言葉を追いかけてきた人間はたぶん知ることができる。
でもそれは、柳の徹底的な「美」の分析にかけられるリクツで納得してしまう、
そんな恐ろしさがある。
『……美しいものを見ると、どこからその美しさが湧き出るかの
謎を解きたい心に駆られ、あれやこれやと想いを廻らせたのである。』
――同章、文中
ここで柳は、「心のやどるものがうつくしい」(筆者要約)と語る。
文中で柳が語るとおり、宮沢賢治の言葉の流れのように、シカ刀自の
言葉は文字とあいまって確かに、ほんとうによい。
実際に見てもらいたいが、引く。
『……はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきくたされ。
はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にしさむいてわ。おかみ(拝)。ひかしさむいてわ。おかみ。
しております。 きたさむいてはおかみおります。
みなみたむいてはおかんておりまする。
(略)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。』
心がおどっている。それもしんから、人に見せようとするものではない、
その一瞬ひとりの人にずどんと捧げられた心のせつないリズムが、
どうしようもなくこちらの胸をうって、
手描きの文字を揺れる車内で読みながら、涙がぽろぽろこぼれてきた。
刀自の手紙に解説を添えた高崎辰之助というひとも、
こまるくらい涙がとめどなく溢れてきたといっていた。
そういう手紙、ひとりのひとに捧げられた思いが、皆の心を打つ、
字形と言葉がひとつになった手紙が刀自の手紙だ。
これを柳は「美しい」という。
それを「美」とくくってしまうことが、正しいことなのか、
わからなくなって、わたしはごちゃごちゃしてしまった。
そもそも「正しいことなのか」と問うことが、正しいのか、間違っているのか、
それもわからない。
ただ柳の感じ方において、わたしが首をかしげたのは確かなことなので、
とりあえず文字にして残しておこうと思う。
また独白になってしまった。迷っています。
生まれる時が早すぎた人は大勢いる。
柳宗悦も、そうした人の独りだったかも知れない。
でも、あの時代に彼が生まれていて良かったとも思う。
彼は芸術家でも、工芸家でもなかった代わり、行動する思想家だった。
だから、みなの心底に通じる思いを言葉にして、訴えることができたのだ。
彼の仕事は日本民藝館となって、駒場東大の近くにひっそりと雄雄しく
立っている。日本のかつての心をめいっぱいに集めて。
こんな仕事が出来たのは、この人があの時代に生まれていたからで、
そう思うと、やっぱりあの時代でよかったのかな、と思う。
柳宗悦の思うことはそんなにむつかしいことではない。
ただ、まとめるのが非常にむつかしいのだ。
「つまるところ」がつかえない。
どんな思想家でもそれはそうなのだが彼の場合、ものがからんでくる分
もうすこしむつかしくなっている、と思う。
随筆は、とてもストレートに柳の思いを語っている。
断片みたいなもので、中には女性に向けて語ったものもあったり、
啓蒙したり、考えたりとまじめな柳が見えてくる。
ちょっとお説教ぽくて堅苦しい。
たとえば一文「野口シカ刀自の手紙――野口英世博士へ与えた母の手紙――」
の中で、野口シカという無学の老婆が書いたたどたどしい筆跡を彼は
美しい、
と思い、それは確かに、胸を打つ美を持っていることを、
ここまで柳の言葉を追いかけてきた人間はたぶん知ることができる。
でもそれは、柳の徹底的な「美」の分析にかけられるリクツで納得してしまう、
そんな恐ろしさがある。
『……美しいものを見ると、どこからその美しさが湧き出るかの
謎を解きたい心に駆られ、あれやこれやと想いを廻らせたのである。』
――同章、文中
ここで柳は、「心のやどるものがうつくしい」(筆者要約)と語る。
文中で柳が語るとおり、宮沢賢治の言葉の流れのように、シカ刀自の
言葉は文字とあいまって確かに、ほんとうによい。
実際に見てもらいたいが、引く。
『……はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきくたされ。
はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にしさむいてわ。おかみ(拝)。ひかしさむいてわ。おかみ。
しております。 きたさむいてはおかみおります。
みなみたむいてはおかんておりまする。
(略)
はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。』
心がおどっている。それもしんから、人に見せようとするものではない、
その一瞬ひとりの人にずどんと捧げられた心のせつないリズムが、
どうしようもなくこちらの胸をうって、
手描きの文字を揺れる車内で読みながら、涙がぽろぽろこぼれてきた。
刀自の手紙に解説を添えた高崎辰之助というひとも、
こまるくらい涙がとめどなく溢れてきたといっていた。
そういう手紙、ひとりのひとに捧げられた思いが、皆の心を打つ、
字形と言葉がひとつになった手紙が刀自の手紙だ。
これを柳は「美しい」という。
それを「美」とくくってしまうことが、正しいことなのか、
わからなくなって、わたしはごちゃごちゃしてしまった。
そもそも「正しいことなのか」と問うことが、正しいのか、間違っているのか、
それもわからない。
ただ柳の感じ方において、わたしが首をかしげたのは確かなことなので、
とりあえず文字にして残しておこうと思う。
また独白になってしまった。迷っています。