一九四〇年頃、ドイツに占領されたポーランドの一角にはユダヤ人の収容施設と、収容所の職員の家族などが暮らす区画が設けられた。『関心領域』の原題はその区画を意味する言葉である。ドイツ将校、収容所所長、収容されたポーランド系ユダヤ人の三人が順番に自分のことを語る中で始めは薄らとしか見えなかったその場所が次第に色を帯び熱を抱いて、最初からそこに入れられている収容者を管理する側の将校と所長を死の臭いが絡め取っていく。将校は国と自分達が何をしているかを理解しながら他人事のようにそれを眺め、収容者は逃げ出すことも死を自ら選ぶことも許されず苦しみを慫慂と受け入れて人間らしさという砦をアイデンティティで守っていく。その合間で収容所の所長は「関心領域」の中では絶対的な権力者として振る舞いながら、彼の地位を簡単に揺るがせる上の階級の一挙一投足に怯えている。自分が絶対的に強い人間であることを他者の口から証明してもらうことで彼の自尊心は保たれ、つかの間怯えと不安を忘れることが出来る。相手が将校であろうと収容者であろうと妻子であろうと、彼には自分の地位を失う事への恐れから生まれる不安が執拗につきまとう。収容者への罪の意識などは欠片もない。自分の思い通りになる限りは妻子も可愛いと思う。いつ転地させられるか分からない将校など今握っている権力の前ではそう大したことはない。けれども不安である。物言わず常に望めば望んだだけの酔いを与えてくれる酒は信頼できる。戦況が変わるにつれて不安の強まる所長の姿が収容所の惨状と重なるように二人の目から観察されていく。所長の美しい妻にしか目をやらなかった将校も次第に劣勢となり所長の権力の寿命が具体的にわかるにつれて、所長に巻き込まれる形でそこに居る妻を本気で愛するようになってしまう。愛すれば愛するほど彼女を通して所長が見える。収容者は所長の不安定な気まぐれによる嗜虐的な命令を風のように聞き流し、収容所へ送られてきた同胞達と逮捕されていない妻へ思いを馳せる。終盤になるにつれて二人の目からも所長は孤立して、自分の大きな飾り物であった妻も波のように遠ざかり、自尊心を保たせてくれる他人がいなくなったところで語りをやめてしまう。彼ら三人の戦後は物語の最初からある程度仄めかされる流れの通り終わり、彼らのいた「領域」から皆離れてゆく。緻密な幕が下りた沈黙の後に読者が何を残すかを試されているような静けさは、もう一度物語の最初へと指を誘うのだ。
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