えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

張競「恋の中国文明史」読了

2009年02月06日 | 読書
:「恋の中国文明史」ちくまライブラリー90 1992年 張競著

訳者のいない本です。
そのためか日本語がまだ固い印象を受けました。

作者の張競は、れっきとした上海生まれの中国人です。
ですが、日中比較文化論を学ぶために渡日し、東京大学大学院で
学問を修めました。
今手元にある彼の本は「恋の中国文明史」と
「中華料理の文化史(ちくま新書・1997年)」の二冊ですが、
どちらもしっかりした日本語で論じられています。

さて、本書はこんな問題から始まります。
『中国では恋を表現するのに固有のことばがなかった。』
恋、という情感自体の定義が言葉がないので出来ません、という衝撃。
作者はここを、恋の定義ではなく、男女の付き合い方の変化、という視点から
当時の文化を追いかけるという姿勢を取って論じています。
追いかける範囲は、紀元前「詩経」から近代、
文革はアウトなので魯迅までの近代。
これだけでも3000年近い壮大さです。

まずベースとなるのは、親が支配する婚姻の論理です。
親が相手を決める結婚には、当人同士の自由意志が介在しません。
結婚というシステムの占める比重は、結局、かなり近い時代まで、
中国の文化の中では一歩も変化しなかったのです。
基本的に恋愛と呼べる感情は閨房の中ではぐぐまれる、
「才子佳人式」と呼ばれるスタイル自体はずっと変化しません。

中原で保ち続けるスタイルの一方で、異民族の進入、
彼らの中原文明への同化が、ゆっくりと漢民族の性格を変えていった。
特に1279年のモンゴル族=つまり非漢族の王朝、元が、落とした影響について
作者は重要視しています。
モンゴル人が持ち込んだものは、男女が席を同じゅうする、
ふつうの男女が一緒にお祭りや劇に行ったりする、混交の自由さでした。
異民族が異民族として、初めて自分の力を手に入れたからこそ、民衆への
文化の同化が高まった、こうしたキーとしてモンゴル族の侵入がある、
と位置づけています。(読みが浅ければ申し訳ありません)

ただなんというか、日本で言う「純愛文学」というものは、とうとう
最後まで現れませんでした。
二葉亭四迷の「浮雲」のように、未婚の男女のこまごました
恋愛感が出てきても、やっぱりその背後に、親が支配する結婚の概念が
見え隠れする。
そこには、最強の異民族侵入、欧米文化の吸収/非吸収が関わっている、
と締めくくります。
この終章のタイトルが、
「恋愛の発見」
ですから、なんとも晩生な文化なのかも知れません。
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幸田文「みそっかす」読了

2009年02月02日 | 読書
:岩波書店「みそっかす」 幸田文作

女流作家で最も好きな作家を挙げよ、といわれたらまず、
名前が候補として挙がるのが幸田文です。
もう一人は武田百合子。
どちらも甲乙付けがたい随筆(幸田文のほうは小説も書いているけれど)を
書く人です。

武田百合子は、感覚でものを書く。感覚をそのまま言葉にする、
語感も五感もとても大切にする人です。
これは、「ことばの食卓」の「牛乳」から、

『牛乳を飲んでから、お風呂に入ったら、むっとこみ上げてきて、湯船の中を
白濁させたので、湯上りに飲むようになったのけれど、それでも、やっぱり、
むっとする。やっとのことで飲み干したあとも、しばらくは、のろのろと、
湯呑の馬の絵を指でなぞったりなどしている。』

句点が多いので、横書きでは少々読みづらいと思います。
これが縦書きで、音読をしてみるとちょうど良くなるので不思議です。

いっぽうで、幸田文の描写は、非常にストレートで素直。
「みそっかす」は、幼児期から小学校卒業までの、家族の思い出を
書き並べた、初期の随筆ですが、後の「流れる」に続くような
描写の正確さは、人物像や景色どちらにも傾かずに丁寧です。
たとえば、「湯の洗礼」の冒頭。

『眼が覚めた。父はたたきつけるように詩を吟じているし、聞きなれない、
しかし明らかに金物のちんちんという音が拍子をとっている。
暗い寝室のなかへ一本、光の縞が切り込んでいる。唐紙の親骨のしめあわせが、
ほんの少しずっている。』

ものを連載するために、初めて筆をとったぎこちなさよりも、
描写の率直さがすなおにこちらの眼に届く文体です。
あまり心理を深く切り込まない代わりにこうした描写が細かくて細かくて、
視点の動きから心を読ませることの出来る、
ある意味とても主観的なカメラで幸田文は思い出をつづっています。

幸田文は生母と死に別れ、父の幸田露伴は再婚をします。
父と継母、二人はなかなかうまくゆかない。
その頃の幼い幸田文の意地と弱さ、
不器用な遠慮の仕方、誤解、
すべて客観的に大人の幸田文は書いていながらも、
読みすすめてゆくと、そうでもなくて、今もかわらず、その時のかなしさを
かなしい、と思って文に出来る人なのだとわかります。

『なぜ、大人の世界と子供の心のなかには誤差ができるのだろう』

こういうことばをほろりとこぼします。
そんなこぼした言葉を拾い集めてゆくと、「みそっかす」には、
思った以上の感情がつめられていて、ひどく心を動かされる本でした。

同じような、もっと辛い悲しみを、ここまでとつとつとかける人がいるなら、
もう書くことなんて無いんじゃないか、そう思いました。
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