毎日どたばた走り回っているので、
落ち着いて考える暇もないのだが、
同僚との会話で思い出したことがある。
夏休みの過ごし方として、
不景気で海外旅行が減ったということ、
また国内旅行も無理にでかけずに、
家で過ごすことが多くなったこと、
でかけても近場ですませることになったということだ。
家族連れのお客さまが多い私の職場も影響を受けていると思う。
おかげさまで、たくさんのご家族連れがいらして下さるのだが、
どうだろうか?
楽しんでいただけているだろうか?
* * *
私の父は忙しい人だったが、私が小学校高学年のとき、
1年ほど失業していたことがある。
ピアノを教えながら家計を支えた母は大変だったと思うが、
子供の私は父がずっと家にいてくれてうれしかった。
私の記憶にある家の中の父の姿の記憶は、
おそらくこの1年のものだと思う。
60年代後半、経済の高度成長が始まった時期だが、
夏休み、冷房もなかった家の一番涼しい玄関に
家族4人が集まって、ひたすらゲームをして遊んだ。
今のようにテレビゲームなどはもちろんなくて、
ダイアモンドゲームなど数種類のゲームが入った
ゲーム盤だったと思う。
楽しそうだった若い父の笑い声や口調を今でも思い出すのだ。
妹はまだ幼稚園だったから、
ゲームが一緒にできたかどうか分からないのだが、
とにかく傍らにいたと思う。
1年の失業がなければ、一緒に過ごすことのなかった夏休み。
活動的だった父は、家族を連れて海や山や
あちこちにでかけるのが好きだったが、
どこにもでかけなかったあの夏休みの幸せはどうだろう。
仕事を離れた父はリラックスしていて、
数年後、学生運動に連動して自由を求め、
裁判にまで発展したN大生産工学部の事件のことなど、
想像もしていなかったに違いない。
そもそも失業したのだって、W大が1年しか許さない留学を
2年勉強したいから自費で延長して、
大学側と喧嘩してやめたのかやめさせられたのかという
呆れた理由なのだ。
現在だって1年と決められているのだから、
父の抗議は何の役にも立たなかったわけだ。
そののち学生の味方をしておこしたN大との裁判も敗訴して、
一体大学の何が変わったのか。
正しいと思うことを押し通して、父は過労から腎臓を患った。
父が職場を変わることで引越しを余儀なくされ、
受験期の私は新しい土地に馴染めず、情緒不安定となって、
暗い青春を送った。
そうだ、あの引越しも夏だった。
父はいたのだろうか、あまり記憶にはなくて、
父の盟友N田さんがお手伝いをしてくれたような気がする。
母が風呂桶に水を張り、冷やしてくれた西瓜を
私は居間までかかえて運ぶ途中で落として割ってしまった。
鈍い音がして、足下でぐしゃぐしゃになった。
N田さんが「いいよ、いいよ、切る手間が省けたよ」と
なぐさめてくださったが、割れた西瓜は不味くて、
とても悲しかった。
* * *
この盟友N田さんが不思議な方で、
この引越しのときも助っ人にやってきてくださったが、
父の具合が悪くなると、こちらから何も知らせなくても、
向こうから連絡を下さる方なのだ。
父の最期の入院のときも、亡くなったときも、
電話をかけてきて、飛んできてくださった。
どうしてわかったのだろう?
「いや、なんとなく」とおっしゃるのだが、
実際ご本人にすれば、本当に何となく電話しなくては
ならない気持ちになられたのだろう。
わかるかわからないかわからなかったが、
棺の父に「よかったわね、N田先生がいらしたわよ」と声をかけた。
* * *
夏休みのことから、連想ゲームのように思い出してしまった。
こどもたちへ。
これからつらいことがあっても、遠い日の夏の思い出が
胸の奥でかがやいていますように!
誰にも愛されない惨めな気持ちになったとき、
暗がりで手を握ってくれる思い出となりますように!
落ち着いて考える暇もないのだが、
同僚との会話で思い出したことがある。
夏休みの過ごし方として、
不景気で海外旅行が減ったということ、
また国内旅行も無理にでかけずに、
家で過ごすことが多くなったこと、
でかけても近場ですませることになったということだ。
家族連れのお客さまが多い私の職場も影響を受けていると思う。
おかげさまで、たくさんのご家族連れがいらして下さるのだが、
どうだろうか?
楽しんでいただけているだろうか?
* * *
私の父は忙しい人だったが、私が小学校高学年のとき、
1年ほど失業していたことがある。
ピアノを教えながら家計を支えた母は大変だったと思うが、
子供の私は父がずっと家にいてくれてうれしかった。
私の記憶にある家の中の父の姿の記憶は、
おそらくこの1年のものだと思う。
60年代後半、経済の高度成長が始まった時期だが、
夏休み、冷房もなかった家の一番涼しい玄関に
家族4人が集まって、ひたすらゲームをして遊んだ。
今のようにテレビゲームなどはもちろんなくて、
ダイアモンドゲームなど数種類のゲームが入った
ゲーム盤だったと思う。
楽しそうだった若い父の笑い声や口調を今でも思い出すのだ。
妹はまだ幼稚園だったから、
ゲームが一緒にできたかどうか分からないのだが、
とにかく傍らにいたと思う。
1年の失業がなければ、一緒に過ごすことのなかった夏休み。
活動的だった父は、家族を連れて海や山や
あちこちにでかけるのが好きだったが、
どこにもでかけなかったあの夏休みの幸せはどうだろう。
仕事を離れた父はリラックスしていて、
数年後、学生運動に連動して自由を求め、
裁判にまで発展したN大生産工学部の事件のことなど、
想像もしていなかったに違いない。
そもそも失業したのだって、W大が1年しか許さない留学を
2年勉強したいから自費で延長して、
大学側と喧嘩してやめたのかやめさせられたのかという
呆れた理由なのだ。
現在だって1年と決められているのだから、
父の抗議は何の役にも立たなかったわけだ。
そののち学生の味方をしておこしたN大との裁判も敗訴して、
一体大学の何が変わったのか。
正しいと思うことを押し通して、父は過労から腎臓を患った。
父が職場を変わることで引越しを余儀なくされ、
受験期の私は新しい土地に馴染めず、情緒不安定となって、
暗い青春を送った。
そうだ、あの引越しも夏だった。
父はいたのだろうか、あまり記憶にはなくて、
父の盟友N田さんがお手伝いをしてくれたような気がする。
母が風呂桶に水を張り、冷やしてくれた西瓜を
私は居間までかかえて運ぶ途中で落として割ってしまった。
鈍い音がして、足下でぐしゃぐしゃになった。
N田さんが「いいよ、いいよ、切る手間が省けたよ」と
なぐさめてくださったが、割れた西瓜は不味くて、
とても悲しかった。
* * *
この盟友N田さんが不思議な方で、
この引越しのときも助っ人にやってきてくださったが、
父の具合が悪くなると、こちらから何も知らせなくても、
向こうから連絡を下さる方なのだ。
父の最期の入院のときも、亡くなったときも、
電話をかけてきて、飛んできてくださった。
どうしてわかったのだろう?
「いや、なんとなく」とおっしゃるのだが、
実際ご本人にすれば、本当に何となく電話しなくては
ならない気持ちになられたのだろう。
わかるかわからないかわからなかったが、
棺の父に「よかったわね、N田先生がいらしたわよ」と声をかけた。
* * *
夏休みのことから、連想ゲームのように思い出してしまった。
こどもたちへ。
これからつらいことがあっても、遠い日の夏の思い出が
胸の奥でかがやいていますように!
誰にも愛されない惨めな気持ちになったとき、
暗がりで手を握ってくれる思い出となりますように!