基本的に芸能ごとには、あまり詳しくない。
TVをあまり観ないので、人気の芸能人など顔は分っても、名前は分らない。映画はたまに観る程度だし、舞台や劇場には滅多に足を運ばない。だから戯曲はどうもピンとこない。
さて、そこでシェークスピアだ。名前だけなら誰もが知っているが、読んだ人は案外少ないようだ。私が初めて読んだのは、多分高校生の頃だが、それほど感銘を受けた覚えはない。
大学生の頃、少し年上だった彼女は、私が演劇関係に興味を示さないことに不満だったらしく、時折劇場を連れ回された。その時合席した彼女の友人から、シェークスピアは声を出して読むと面白いと聞かされた。
少し思い当たる節があったので、さっそく家に帰って一人の時にやってみた。嗚呼、なるほどと思った。それまで、なんて回りくどい言い回しなんだと不満を抱いていたのだが、声を出すとスイスイ読める。そのうち、心の中で声を出す読み方に変えてみたところ、同様の効果があることが分り、一時期戯曲を読み漁っていたことがある。
ただ、本音は彼女との共通の話題欲しさであったので、別れてからは縁遠くなってしまったから私も浅ましいものだ。
シェークスピアの五大悲劇のうち、私の記憶に最も深く刻まれたのが、表題の「リア王」だった。歴史絵巻としての面白さは、数あるシェークスピアの作品のなかでも一番だと思う。
自らの愚かな判断が裏切りを招き、人を見る目を誤らせ、大切な人を失う辛さ。その辛さが次第にリア王の正気を失わせていく有様は、見たくないものを無理やり見せられるが如き厳しさがある。それでいて、目を逸らすことが出来ない。悲しみと後悔が、リア王を狂気の谷間に追いやっていく。
老いらくの狂気は、周囲の人間を遠ざける。孤独は、ますます狂気を色濃く深めていく。人はこれほどまでに苦しめるものなのかと、十代の頃驚愕したことが思い起こされた。
その後、難病を患い長く療養生活を送るようになったが、私が最も嫌がったことが、周囲から常軌を逸していると見られることだった。なまじ苦しみから、狂気の淵を彷徨う自分を意識していただけに、人前では殊更平常を装う癖がついた。妙な発言をしないように、意識して常識人を装うように努めた。
その癖、狂気をあからさまに表に出すことに、妙な憧れをも持っていた。狂ってしまえば、狂いきってしまえば悩むことはないだろうと安易な夢をみたせいでもある。
狂ってしまうほどの悲劇は、遠くから見ているだけでいい。自分自身で体験して良いものではない。だからこそ悲劇を描いた本は読むだけで十分だ。自分は不幸だと自己憐憫の深みにはまりそうになったら、シェークスピアの悲劇を読むのは、けっこういい心のリハビリになると思う。
TVをあまり観ないので、人気の芸能人など顔は分っても、名前は分らない。映画はたまに観る程度だし、舞台や劇場には滅多に足を運ばない。だから戯曲はどうもピンとこない。
さて、そこでシェークスピアだ。名前だけなら誰もが知っているが、読んだ人は案外少ないようだ。私が初めて読んだのは、多分高校生の頃だが、それほど感銘を受けた覚えはない。
大学生の頃、少し年上だった彼女は、私が演劇関係に興味を示さないことに不満だったらしく、時折劇場を連れ回された。その時合席した彼女の友人から、シェークスピアは声を出して読むと面白いと聞かされた。
少し思い当たる節があったので、さっそく家に帰って一人の時にやってみた。嗚呼、なるほどと思った。それまで、なんて回りくどい言い回しなんだと不満を抱いていたのだが、声を出すとスイスイ読める。そのうち、心の中で声を出す読み方に変えてみたところ、同様の効果があることが分り、一時期戯曲を読み漁っていたことがある。
ただ、本音は彼女との共通の話題欲しさであったので、別れてからは縁遠くなってしまったから私も浅ましいものだ。
シェークスピアの五大悲劇のうち、私の記憶に最も深く刻まれたのが、表題の「リア王」だった。歴史絵巻としての面白さは、数あるシェークスピアの作品のなかでも一番だと思う。
自らの愚かな判断が裏切りを招き、人を見る目を誤らせ、大切な人を失う辛さ。その辛さが次第にリア王の正気を失わせていく有様は、見たくないものを無理やり見せられるが如き厳しさがある。それでいて、目を逸らすことが出来ない。悲しみと後悔が、リア王を狂気の谷間に追いやっていく。
老いらくの狂気は、周囲の人間を遠ざける。孤独は、ますます狂気を色濃く深めていく。人はこれほどまでに苦しめるものなのかと、十代の頃驚愕したことが思い起こされた。
その後、難病を患い長く療養生活を送るようになったが、私が最も嫌がったことが、周囲から常軌を逸していると見られることだった。なまじ苦しみから、狂気の淵を彷徨う自分を意識していただけに、人前では殊更平常を装う癖がついた。妙な発言をしないように、意識して常識人を装うように努めた。
その癖、狂気をあからさまに表に出すことに、妙な憧れをも持っていた。狂ってしまえば、狂いきってしまえば悩むことはないだろうと安易な夢をみたせいでもある。
狂ってしまうほどの悲劇は、遠くから見ているだけでいい。自分自身で体験して良いものではない。だからこそ悲劇を描いた本は読むだけで十分だ。自分は不幸だと自己憐憫の深みにはまりそうになったら、シェークスピアの悲劇を読むのは、けっこういい心のリハビリになると思う。