後ろ向きの悦楽があることは否定しない。
はばかりながら、私はあまり真面目な子供ではなかった。いけないとされたことをするのが大好きな子供でもあった。先生がダメだと云えば、むしろやりたがり、法律がダメだと云えば、決まりなんて破るためにあるのさと嘯く子供でもあった。
やっちゃいけないことをやるのが子供の特権さと勝手に決めつけていた。
やってはいけないことを敢えてやる快感。これは間違いなく存在する。私はこの快感に酔い痴れる性悪な子供であった。なぜかって? だって楽しいのだもの。
そのせいだと思うが、ミステリーでも探偵役より犯人側を応援することが珍しくない。もっといえば、犯人に魅力がないミステリーなんて面白くないとも思っている。
ミステリーの世界でも、警察や探偵といった犯罪の被害者側の立場に立つほうを主役にせず、敢えて加害者である犯人側を主役にした作品は少なくない。多くの場合、止む無く犯罪者側の世界に入ってしまい、事件に巻き込まれるとった形をとることが多い。
だから表題の作品のように際立った動機がなく、なんとなく犯罪者になったような罪悪感に欠ける主人公は案外珍しい気がする。その無自覚さが「陽気なギャング」と表現されるのであろうが、私には少し違和感がある。
陽気だからではなく、いけないことをする悦楽を楽しんでいるギャング。そんな印象を否めない。後ろ向きの背徳感がないという意味では、たしかに陽気なのだが、やはり読後感からすると「陽気なギャング」には無理がある。
むしろ暢気なギャングと言いたくなる。実際は地に足が付いた真面目なギャングであり、平穏な市民としての顔を持ちつつギャングを止めることができずにいる。ただ罪悪感が乏しいが故に「陽気なギャング」を名乗られても、私は少々納得がいかない。
とはいえ、久しぶりに一気読みした快作なのは間違いなし。私は売れている時には手を出さず、古本屋の書棚に並び、あるていど評価が定まってから手を出す意地悪なミステリーファンですが、この作品は納得の一冊でもあります。