戦争だって宣伝次第。
チトー大統領の死後、民族融和の成功例と云われたユーゴスラヴィアはあっという間に瓦解した。冷戦という外圧が消えたことと、カリスマ的政治家であったチトーあってこそのユーゴであった。
それゆえ、経済格差が豊かなクロアチアとスロベニアに不満を抱かせて離脱、社会主義の崩壊は民族主義を甦らせてボスニア=ヘルツェゴビナの連邦離脱の動きに火を付けた。
これはユーゴスラビア連邦の中心的存在であったセルビアに許せることではなかった。何故ならボスニアにはかなりの数のセルビア人が長年住んでおり、連邦内では少数派のイスラム教徒中心のボスニアの独立は断固阻止せねばならなかった。
ここで20世紀のヨーロッパで最も悲惨な内戦が始まる。かつて冬季オリンピックの開催地として名をはせたサラエボは、昼間も夜も銃弾が飛び交う戦乱の地となり荒れ果てた。
悲劇だったのは、このボスニア=ヘルツェゴビナの地には、セルビア人と他の少数民族との夫婦などが多数生活しており、親友、恋人がセルビア人であるケースも多数あったことだ。チトーの生存中はまったく問題なかったのに、今では民族が違うだけで同席することさえ許されない。
どちらが正しいとか、間違っているなんて判断なんかできるはずがない。そうなると国力の違い、軍事力の違いだけが答えを出す。貧しいといえどもセルビアの軍事力はやはり強大だ。新たに樹立されたボスニア=ヘルツェゴビナ政府としては外国の支援を受けるしかない。
そこで英語力が堪能で、話が上手いハンサムな大学の先生が外務大臣に任命された。その至高の目的は外国の支援であり、国連の賛同であり、そして唯一の超大国アメリカの支持であった。
だが素人外務大臣には手伝ってくれる部下もなければ、独自の人脈もない。国連本部のあるNYの地で途方に暮れる彼に、人権団体である某NGOからある会社を紹介された。
それがPR(パブリック・リレーションズ)会社であった。単なる広告代理店ではない。民間企業のイメージ戦略から、政治家の選挙対策まで幅広い分野を対象とする宣伝工作のプロである。
このPR会社の協力を得てボスニア=ヘルツェゴビナは、ボスニア戦争を圧倒的に有利に外堀を埋めていく様は恐ろしいほどだ。敵であるセルビアを「民族浄化」「強制収容所」といったキーワードで染め上げて、悪のイメージを国際社会に植え付けていく。
その結果、セルビアは国連を追放される仕打ちを受ける。戦前の日本でさえ追放はされていない。松岡外相の暴走で脱退しただけだから、PR会社の情報操作の威力の凄まじさが窺われる。
だが、果たしてセルビアは本当にそれほど悪質であったのか? いつの時代、どの国であっても内戦は悲惨である。民族浄化(エスニック・クレンジング)も強制収容所もそれが実際にあったかどうかは不確定だし、むしろ宣伝の先走りの観が強い。それどころか、同じことをボスニア側でも行われていた可能性すら疑われる。
国連のガリ事務総長(当時)も懐疑的で、むしろボスニア以上の残虐な内戦が繰り広げられていたアフリカに欧米の関心が寄せられないことへ不満を抱く。PR会社の巧みな情報戦略に踊らされた国連の調停推進を任された明石なんざ、間抜けな鴨としか言いようがない無様な結果で退場を余儀なくされた。
まさに情報戦の勝利がボスニア=ヘルツェゴビナの完全独立を成功させたといっていい。
当時、私はなぜ国際社会がセルビア側をこれほどまでの悪の側だと断じるのか疑問に思っていたが、まさか背後にアメリカのPR会社があったとは思わなかった。PR会社にとって、日本は工作の対象外(国際的影響力が低い)であったからだ。だから分からなかったのだと、ようやく理解できた。
多数決原理が大きく幅を利かす今日の国際社会で、世論の支持が欠かせない。その世論を有利に導く情報戦略がこれほどまでに効果的だとは思いもしなかった。アメリカに守ってもらっている対場の日本は、あまりに平和すぎるがゆえに、暢気に無邪気に無知でいられたのだろう。
ちなみにこの手の情報戦略が最も苦手なのが日本の官庁である。ただし国内ではお上に素直な大手マスコミ様を利用しての情報戦略は盛んで、増税路線を拡大中なのはご存知のとおり。ただしテルテル坊主(憲法9条)を信仰すれば平和が適うといった妄想に憑りつかれているが故に、外交分野では相変わらずの情報音痴である。
これは外務省に事なかれ主義が蔓延していることだけが原因ではない。アメリカの軍事的従属下に置かれていることに安住している日本政府そのものの怠惰が原因でもある。つまるところ日本人の歪んだ平和信仰が原因だとも思う。
情報戦略を上手に使えば、小国といえども国際社会を動かせる。この本の内容はNHKの番組を元に書かれているので、番組を観た人もいるかもしれませんが、TVでは放送されなかった情報の記述もあるので、宜しかったらご一読をお勧めします。