ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

完全なる首長竜の日 乾緑郎

2014-03-24 12:00:00 | 

夢と現実の区別は案外と難しい。

あの日、私は確かに丹沢山中の沢沿いの道を離れて、森の中を彷徨ていた。夕暮れになり、巨木の根元に横たわり、その土の臭いや梢を揺さぶる風の音までもが鮮明に記憶に残っていた。サラサラの土に掌の湿気を吸い取れれて、かさかさになった皮膚の感触までも覚えていた。

でも目が覚めたら、病院のベッドの上だった。それもまだ朝が明けない最も暗い時間であった。病室であることはすぐに分かったが、なぜここに居るのかが分からなかった。丹沢山中にいたはずではないのか。

しばらく、ぼっと考えてみて丹沢の山は夢であったことに気が付いた。そして思い出してしまった。昨夜、私は命の危機にあったことを。昨日は透析の日であった。朝から午後まで5時間あまりを透析室で過ごし、病室に戻って寛いていると主治医があたふたと飛び込んできた。

何事かと思ったら、再び透析を行うとのこと。よく分からないが、一日に二度の透析は初めてである。とにかく言われるままに透析室へ運ばれ、誰もいなくなった夜の透析室で深夜まで過ごした。

前にも書いたが、この時はかなりの高カリウム血症の症状が出ていて、本当に危なかったらしい。といっても寝たきりの私に自覚症状はまるでない。覚えているのは、夕食のデザートのパイナップルを取り上げられたことぐらいだ。

深夜になって主治医が嬉しそうに、本当に嬉しそうにやってきて血中カリウムの数値が下がったから、これでもう一安心。命の危険は去ったよと話してくれた。その後、ストレッチャーに乗せられて病室に戻って、今聞いた言葉を反芻してみる。

命の危険は去った・・・

そうか、自分はそんな危ない状況にあったのか。で、私は一安心するどころか、猛烈に怖くなった。あまりの恐怖に逃げ出したくなった。でも寝たきりで、一人では寝返りも打てない衰弱した状態でもあった。

逃げるどころか、身動き一つ満足に出来ない状態で、自分が死の瀬戸際にあったことを恐れおののいた。寝たきりの状態で、このまま自分が死んでいくことをイメージして、居ても立っても居られない焦燥感に苦しんだ。

今、自分に出来ることがあれば、なにがなんでもやってのけるつもりであった。でも、なにも出来ないし、なにをしたら良いのかも分からなかった。どうしたら良いか、まったく分からなかった。

根がバカなのか、私は悩み苦しみながらも、いつのまにやら寝てしまったようだ。その時見た夢が、丹沢の森の中を彷徨い、彷徨い疲れた身体を巨木に預けて寝ることだった。寝たきりの人間が、寝る夢を見るのだから、混乱するのも当然だろう。

だが、今だから分かるがあれは私の現実逃避だったのだろう。逃げるどころか、身動き一つできない自分を自覚した時、夢のなかで逃げ惑っていたのだろう。夢は何度もみているが、あれほどリアルな実感を伴った夢は、あれが初めてであった。

夢から覚めて、夜明け前の一番闇が濃い時間から、日が昇るまでの2~3時間で、私の死の恐怖というストレスで苦しみ、遂には胃潰瘍になってしまった。ストレスが胃潰瘍を引き起こすことは知っていたが、まさかほんの数時間で胃潰瘍になるとは思わなかった。

きりきりと痛む胃を抑えながら、私は自分がかくも臆病であり、ストレスに弱い人間であることに呆れていた。子供の頃からわりと無鉄砲であり、死の恐怖なんて自分にはないと思い込んでいた。でも、それがとんでもない思い上がりであることを、その時初めて自覚した。

朝になり、看護婦さんに胃が痛いと告げるが、その時顔が赤らむのを自覚せざるを得なかった。その後、総婦長さんがやってきて、あれこれ話をしてくれた。なにを話したのか、まるで覚えてない。でも、午後になって病室にやってきた主治医の先生が、余計なことを言って申し訳なかったと謝ったのは、多分総婦長との話が原因だろうと想像が付く。

まァ、率直に言って患者に話すべきでないことを口にしてしまったのは確かだ。でも私は恨む気持ちはない。この二日間、病院で泊まり込んで私の面倒を看てくれたのは知っていたし、けっこう憔悴していたので、さぞや心労はきつかったのだと思う。だからこそ、私の回復が嬉しかったのだろう。そこまで親身になってくれたのだから、失言も止む無しである。

ただ、私はこれほどまでに精神的に弱いとは思わなかった。実際、あの晩、逃げ出せるものなら逃げ出したいほど怖かった。だからこそ、あれほどまでにリアルな感触の夢をみたのだと思うのだ。

夢をみている自分と、夢の中の自分。私には両者を明確に区分することが出来なかった。心って不思議だと思う。

表題の書は、このミス大賞の受賞作として名高い。当初はSF小説として売り出された記憶があるが、どちらかといえばサイコ・ミステリーに近いと思う。タイトルの奇抜さ、ストーリーの展開の鮮やかさは見事の一言に尽きる。最後は好き嫌いが出るとは思うが、一度は読んでみてもいいように思うので、機会がありましたら是非どうぞ。

コメント
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