パソコンが普及したことによるメリットの一つは、文章を書くことが楽になったことだと思っている。
私はワープロ世代ではあるが、パソコンの日本語入力機能には本当にお世話になっている。既に15年を過ぎたこのブログにしても、ワープロ機能なくしては、ここまで書けなかった。
それでも、いや、だからこそ手書きを大事にしたいと思っている。正直言えば、私は悪筆であり、だからこそワープロ機能をありがたく思っている。顧客に見せることがある資料は、大半がワープロ書きである。
でも、事務所内部でしか使わない資料は、可能な限り手書きで作っている。悪筆の私なので、いささか気恥ずかしさはあるのだけれど、出来るだけ手書きで仕事の内容を記述しておくようにしている。
なぜか。
一つには、漢字を忘れない為である。ワープロソフトを使うようになると、漢字を読むことには影響がない。しかし、漢字を書く力が確実に衰える。これは厭である以上に恥ずかしい。そのためにも、なるべく手書きを増やしている。
もう一つの理由は、修正や訂正をしっかりと残しておきたいからだ。ワープロソフトを使ってしまうと、修正や訂正が綺麗にできる。それは、それでありがたい。でも、後になって困ることがある。
なぜにこの修正をしたのか。当初のアイディアは何だったのか。それがワープロで綺麗に清書された文章からは読み取れない。手書きならば、二重線なり、消しゴムなりで直した形跡が残る。ここから、当初の誤り、勘違いなどが判別できる。これがありがたい。
手書きの場合、間違いなどを直した形跡が残ることが、後になって役に立つ。また、これは私の場合限定だと思うが、筆跡から当時の気分などが読み取れる場合がある。
基本、せっかちな性格なので、修正もちゃっちゃと行う。その場合、文字は走り書きのような乱れたものになる。しかし、熟慮して慎重に訂正などをした場合、その文字はいつもよりも几帳面なものとなる。
このあたりの私の性向は、数十年かわることのないものだと自覚している。だからこそ、手書きに拘っている。綺麗に清書されたワープロ文字からは、当時の状況を推測できるような文字は読み取れない。
その意味で、手書きの文字は浮ュもある。専門家が看れば、その文字からさまざまな推測が可能であろうと思う。
そんな文字の専門家として、かつてFBIにその名を遺した名捜査官が主人公に据えられたのが表題の作品である。「ボーンコレクター」でもそうだったが、終盤のジェットコースターは健在である。
おまけに安楽椅子探偵ライムもちょい役で登場している。序盤から中盤のスローペースが面唐セが、ラストに向けての疾走感はさすがの一言。秋の夜長を楽しむには最適の一冊ですぜ。