ホンの少し、本当に少しだけ同情している。
なにがって日本共産党である。TVを視ていないので、詳細は知らないが八代弁護士という方が、共産党が触れて欲しくない部分について発言し、それに対して日本共産党が噛み付いているらしい。
私が共産党の人たちと親しくしていたのは、70年代後半だが、当時から既に選挙による革命を目指す意見が多数派であったことは、ほぼ確かだと思う。当時、党を率いていたのは不破哲三だが、多分志位さんはその子分だったのだと思う。だから、怒るのは分かる。
分るけどさ・・・
これは、はっきり言うが、日本共産党が武力革命路線を公式に放棄したのは、90年代の宮本議長の死去以降だ。それまでは、どっちつかずの態度に終始していたはずだ。
だからこそ、多くの若者たちが共産党を支持するのを止めた。すなわち共産党、冬の時代である。
私が本気で民青入りを悩んでいた70年代は、共産党の最盛期といってよく、中選挙区制であっても一画に食い込むほど力のある野党であった。しかし、浅間山荘事件と、その後の日本連合赤軍による連続リンチ殺人事件の発覚以降、急速に党内は混迷を深めていった。
圧涛I多数は、武力革命路線ではなく、話し合い重視の選挙による政権奪取を目指すようになっていた。不破書記長は、その先頭に立っていた人物であった。
しかし、日本共産党は多数決原理で動く党ではない。あくまでプロレタリア独裁政党であり、武力革命という本来の共産主義の立場からの離脱を許さない宮本議長(当時)の意志こそが、党の方針であった。
それでも党内の圧倒的多数派は、選挙による政権奪取を目指す温和な人たちであり、さしもの宮本議長もそれを無視することは出来なかった。だからこそ、どっちつかずの方針を打ち出さざるを得なかった。
これに大きく失望したのが全学連や労働組合でも先鋭的かつ戦闘的な活動をしてきた人たちだ。この失望こそが日本共産党の選挙での地盤沈下の最大の原因だった。
かくいう私もその一人だった。小学生の頃から民青の若者たちの話に夢中になり、いつかは自分も革命戦士へと夢見ていた少年は、共産党に大きく失望した。だから、選挙権を得てもただの一度も共産党に票を投じたことはない。
志位氏が大いに憤るのは分かる。分かるけど、あんた宮本議長にそれを言えたのかい?云えなかったからこそ、あのどっちつかずの党の綱領に手をつけられなかったのだろう。
まァ私も共産党の強権体質を知っているから、当時ひよっこだった志位氏が宮本議長に盾突ける訳ないことぐらいは理解できる。でも、過去の事実は事実として認めなさいな。みっともないぞ。
皆が知ってることなのに、どうしてしらばっくれる
のか理解に苦しみます。共産党のシンパの生き残りと関わる機会があるのですが、何故だか武装革命を肯定していた過去は認めないんですよね。事実なんだから認めろよと思います。
もっともここ20年くらいで共産党の支持者になった人たちは、本気で武力革命を志向していたはずはないと確信しているようです。知らないというか、そう教え込まれているのでしょうね。善意に酔い痴れると、理性が麻痺するようです。