お勉強エリートほど書面に囚われる。
私はエリートとは程遠いが、それでも書面による資料には重きを置いている。その重要性は強く認識しているが、反面デメリットも痛感している。
たしかに文字により記録された資料の信頼性は高い。しかし、その書かれた時の状況次第では、ウソあるいは恣意的な虚報が記録されている場合だってある。
守秘義務があるので具体例を書けないのが辛いところだが、私自身堂々とウソを書くことがある。悪意はないと思うが、ウソはウソである。しかし、そのウソを書かねば、自分よりも相手に被害が及ぶこともある。自身の身の安全を図る必要性がある場合だってある。
これは特段おかしなことではないと思う。言論の自由が保証された現代でさえ、常に本当のことを書ける訳ではない。まして、言論の自由がない時代に生きてきた人たちは、可能な限り真実を書こうとしても、それが出来ない場合は少なくなかったと思う。
一例を挙げれば、戦前の日本史の教科書には大化の改新の記載はあっても、白村江の敗戦の記載はなかった。古代における最大のクーデターであった壬申の乱も記載されておらず、ただ単に天智から天武へと皇位の継承があったと記載されているだけである。
この国定教科書が使われていたのは、わずか百年前であることを思えば、千年前においてどれだけウソの記載、真実の不記載があったのかは容易に想像が付くと思う。
ところが、これが分からないお勉強エリートは多い。書いてあることイコール真実だとは云わないが、信ぴょう性は高いと思い込む。その癖、歴史の評価には時間が必要だと言う。
歴史上の大事件が起こった当時に書かれた資料を一次資料として高く評価する一方で、その数十年後に書かれたものは信ぴょう性が低いなどと平気で言いだす。
だから天智天皇は自然死であり、暗殺なんて記録は当時はないと言い、その後しばらく経ってから書かれた資料に暗殺を伺わせる記録があっても、それは疑わしいと判じてしまう。疑わしいのは、おめえの頭だ。
天智の死に関わった可能性が高い天武が目を光らせている時期に、暗殺説なんて書ける訳がない。当時、言論の自由なんて存在しない。いや、現代だって、すべての記録が真実を書いている訳ではない。
その意味で、ありとあらゆる歴史書はウソだらけだと暴言を吐いても、そう間違ってはいない。でも歴史を記す人々にだって意地はある。古代日本史の聖典扱いされている日本書記だが、これには執筆者の意地が仕込まれている。
日本書記はぶっちゃけ天武天皇ヒーロー史の側面があるのだが、その天武天皇の生年月日が記載されていない。歴代天皇の中で生年不詳なのは、天武ただ一人である。
天智の弟とされているが、これが怪しい。おそらくだが、血縁はあるにはあるが、非常に薄い親族程度の関係なのではないかと思う。実は万世一系とされる天皇家だが、かなり怪しい。
はっきりと怪しいのは継体天皇である。遠い血筋らしいが、この方おそらく本家筋ではないと思う。同時に、天武天皇もまったく別系統の血筋ではないかと疑われる。もちろん、そんなことは聖典たる日本書記には書いていない。
だから表題の書は、伝統的歴史学者から非難轟々である。学問的検証に耐えられぬ俗説だと誹謗されている。私は彼らを日本書記原理主義者だと考えている。
科学的思考よりも聖典を信奉する信者なので道理が通じない。このような方々が、日本の学界の頂点に君臨しているのだから、日本の前近代性は未だ健在であると云わざるを得ない。
聖典を信奉する信者は、世界中いたるところにいるが、そのうち一番厄介なのは、イスラム原理主義者でもなければ、中華思想に囚われた特亜の人々でもない。アメリカにおいて聖書を文字通り真実だと捉えるキリスト教原理主義者である。
現状、カトリックやプロテスタントに次ぐ第三の新派といってよいほどの隆盛を誇る。アメリカがしばしば前近代的とも云える妙なことをやらかすのは、この聖書原理主義者の影響が大きい。
困ったことに、この手の原理主義者は、一個人としては誠実で真面目な良識ある市民であることが多い。これは日米ともに共通するから、尚更厄介だと思う。
信じ込むのではなく、自らの知性で物事を論理的に考えることに自覚がない善良な人たちなので、本当に面倒だと思う。井沢元彦氏には彼らに負けないよう、しっかりと論理的考証と推察により、新たなる歴史を追い求めて欲しいと思います。
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