
古来より日本人は日記をつけるのが好きだったようだ。
これは他の国と比べてもかなり顕著な特徴だ。ほとんどの国では、日記をつけるのは少数の知識階級である。ところが日本では庶民といって良い平民でも日記を記している。これは識字率が高い上に、和紙という優秀な記録媒体が広く普及していたことも大きい。
おかげで過去における天災の詳細が伝わっている。表題の作品の筆者は過去の日記等から天災の被害を推測し、そのデーターをなんとか現代に活かせないかを模索している研究者だ。
歴史的観点からも、過去の大災害が日本の歴史に大きな影響を与えたことが分る。
私が疑問に思っていたことの一つに、徳川家康の関東移封がある。今川に怯え武田や北条と熾烈な戦いを重ねてまでして守ってきた駿河の地から、関東大湿原に移ることを秀吉に命じられた家康。
小牧長久手の戦いにおいて野戦では秀吉側の軍勢に勝った家康である。如何に30万の軍勢で北条を屈服させた直後とはいえ、なぜに関東移菅を受け入れたのか私は不可解に思っていた。もちろん秀吉は家康が反発して受け入れないことも想定していただろう。なれば30万の軍勢で家康を叩き潰す。
もともと家康の配下の侍たちは、遠江、駿河に代々居続けていた地元の侍が中心であり、揃いもそろって武闘派ぞろい。先の野戦では秀吉に勝ったとの意識も強い。一戦交えずして、関東への転属なんざ認められるか。まさに秀吉の思うままである。なのに、何故に転封を受け入れたのか。
しかし史書は教えてくれる。この天正9年は巨大台風により遠江から駿河まで高潮にやられて家康にもその家臣団にも秀吉と戦う余力がなかった。同時に関東大湿原を直に視察した家康は、暴れ川である利根川を東へ流せば、この地が豊饒な農作地になることを予見した。
ただし巨大な土木事業となった。家康から始まり完成したのは三代目の家光の時代である。しかし、その結果400万石近い増収となり、徳川幕府の財政を支える柱となった。
でもそれは結果論だ。なぜに家康は先祖代々の地から、見知らぬ関東へ移ったのか。それも都市として完成していた小田原や鎌倉ではなく、湿原地帯に浮かぶ江戸の地を本拠地にしたのか。
私見ではあるが、家康は郷里である駿河の地に限界を見出していたのだと思う。
この静岡から名古屋にかけての太平洋沿岸は、台風の直撃を受けやすく、過去幾度となく高潮の被害に遭っている。また今も昔も南海トラフから生じる地震のせいで建物崩壊や津波の被害も受けている。しかも富士山という火山の被害まであり得る。
駿河の地に留まっていては、天下統一を実現するのは難しい。さりとて京都も大阪も森林伐採により荒廃しており、首都を築くには問題が多い。その点、関東は洪水を引き起こす利根川の治水に成功すれば、建築用の建材は豊富であり、未開拓の湿原の干拓により農産物の収穫が大きく見込める。
実際、関東から東北にかけては、台風の被害が意外と少ないことが古文書から伺われる。ただ東北は地震がわりと多く、津波被害でも壮絶な歴史を持つ。日記好き、記録好きな日本人の習性は、家康に過去の災害記録から、未来への展望を与えてくれたのではないか。そんな気がするのです。
この本の著者は、過去の記録から災害の被害を最小限にすることを学ぶべきだと強く主張しています。一読の価値はあると思いましたね。
面白い新書の紹介ありがとうございます。早速読んでみます。
先日、友達とこんなに災害の多い国土に住んでるよね、日本人と話していたのですが、確かに記録が残っているから、そのことを私たちが知り得ているのですね。識字率高くてよかった。
少し前に、日本災害新書???みたいな新書が図書館にまとめて入っていて、火山編、地震編、台風編と分冊してました。これも面白かったです。