ヌマンタの書斎

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清洲同盟

2021-10-01 11:51:00 | 日記

20年以上にわたり守られ続けた約束、それが清洲同盟であった。

桶狭間の勝利の二年後、織田信長と松平元康(後の徳川家康)との間で結ばれた同盟は、裏切り、背信が日常茶飯事の戦国時代にあっても、20年続いた稀有な同盟でした。

締結当時は同格の立場であったが、その後の信長の勢力拡大に伴い、家康側が劣位の立場に看られたのは自然の流れであろう。しかし、信長はこの年下の同盟者を大切に思い、最後まで丁重に扱っている。

実際、この清洲同盟があったからこそ信長は東側を心配することなく畿内への政略、戦略に集中できた。一方、家康は旧・今川勢、武田、北条と強敵が多く、あまり勢力拡大はならなかったが、反面勢力を維持することには成功している。

ところが近年、明智光秀への評価が一部で少し変ったことで、この清洲同盟への評価も変わってきている。特に光秀の背後に家康がいて、裏切りを後押ししたかのような風説まで出ている。その風説では、家康は密かに信長を憎んでいたようだと憶測している。

少し違和感があるので、私見を述べてみたい。

家康が信長を憎んだ契機とされるのが瀬名姫と松平信康の自刃事件だ。これは従来瀬名姫が武田方と通じたことへの背信を罰するとして、信長が家康に正室である瀬名姫と長男・信康の死を命じたとされている。

しかし、これは江戸時代に書かれた三河物語からのものであり、徳川家の意向が強く働いていることは明白である。愛妻と長男を失った家康の恨みが、明智光秀への支援につながったと想像する奇説も出ている始末である。

ところが近年の研究により、岡崎城(瀬名、信康)派と駿府城(家康と家臣団)派との相克の結果であり、信康の妻が信長の娘であったため、一応お伺いをたてただけである可能性が高まった。

親族間の戦いを勝ち抜き尾張の覇者となった信長は、身内同士の戦いを好まないが、家康の窮状を察して、好きなようにしろと伝えただけなのが実情のようだ。実際、本能寺の変直前まで、二人の仲は違うことなく続いている。

公式な記録にはないが、この二人おそらく幼馴染の可能性が高い。まだ松平元康であった幼少時、信長の父・信秀に攫われて人質になっていた頃、腕白盛りの信長と知り合っていた可能性は決して低くない。

信長は案外と弱い立場の人間に対しては優しく、人質として肩身の狭い立場の元康に優しく接していたのではないかと思う。桶狭間で今川に勝利した信長であったが、元康(家康)と再会するまでに二年要している。これは、互いに戦い合ったため、部下を説得する時間が必要であったからだと思われる。

幼き日の二人が、いかなる会話をしていたのかは不明だが、若くして天下布武の理想を持っていたと思われる信長に対し、元康は憧れにも似た強い感情を抱いていたのではないかと私は想像してしまうのです。

戦国武将がそんな甘いことをと冷静に切って捨てるべき妄想ではと思わないでもないが、互いに背中を守り合うかのような清洲同盟があったからこそ、信長の覇業は進んだと思うのです。

そして信長が死んだ後、それまで長く雌伏していた家康は、天下統一を引き継ぐのは秀吉ではなく自分だとの決意を胸に秘めた。そんな気がしてならないのですよ、私は。


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2 コメント

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Unknown (大俗物)
2021-10-04 01:55:11
こんばんわ。
どうなのですかねぇ。ヌマンタさんの言うような事もあったかも知れないし、しかし記録も残ってないし。秀吉に対して自分の方が信長と近い絆があると(家康が)考えていた説には、納得はゆきます。やはり少年から青年にかけての信長を身近に知っている。人質とはいえ家来としてではない関係ですから。そこは秀吉に「お前なんかよりも」と考える動機はあったような気がします。
ただ……信長に関しては、ヌマンタさん御自身が好きで、「厳しいが優しい側面がある」を強調されるきらいがある気がするんですね。「信長のシェフ」の時とか。
それは…私も上杉謙信とか、郷土の出身である土方歳三とかに似たような気持ちを持つので解るんです。でも解るから、逆にフィルター越しの記事に思えてならないんですよ。
むしろ何で信長絡みの記事になると、いつも信長の内なる優しさとか、そこを強調なさるのか、ヌマンタさんの意図の方が気になります。
シンプルに好きだからか?
しかし天邪鬼を名乗る人がそうするかな??と。
私は、信長が鉄砲隊を導入したのは織田軍が上杉みたいな乱戦に強い軍でなかったからと考えてますし、兵農分離したのも、尾張はもともと米作には向かず、養蚕を主産業にしていた(これは基本的には女性の仕事)からで、通商と貨幣経済に敏感だったのは、絹へ加工する原材料を主生産する
地域だったからと想うてます。つまりは頭の切れる統治者ならば必然の事で、別に言われる程に革新的な思考の持ち主だったとも思わないです。
ただ結果として中世を終わらせて近世を開いたのは事実で、その事実だけ見れば良いのではないですかね? ラストは悲劇ですが、天下一統もほぼ果たしている事ですし、判官贔屓する理由もないと想うんですね。義経とかと違って。
どうも信長についてはアゲ↑が多くて食傷気味なので、天邪鬼になってしまうんですねぇ。
まぁ私がヤン・ウェンリー派でラインハルト派ではない事が影響してると思いますが(笑)
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Unknown (ヌマンタ)
2021-10-04 12:48:22
大俗物さん、こんにちは。どちらかといえば、今は信長に逆風を吹かしたい人が増えているように思います。特に人道的見地から、大量虐殺者である信長の英雄視はよくないと主張する歴史学者まで出る始末です。

またNHKの大河ドラマの影響らしく、明智光秀を美化する動きも散見します。一過性のものだと思いますが、私には違和感が強いですね。

尾張だけでなく、三河も気候に恵まれているため、雪国や山地の農民兵に比して、弱兵であることが鉄砲導入や長槍の導入に至ったとする説は、私も頷けます。海沿いですから流通の便(船が使えますから)の良さが、国を増々栄えさせ、戦国大名に経済の重要性を教えたのでしょうね。

なお、私まとめ読みする予定なので、ここ2年以上「信長のシェフ」は読んでいません。一気に最後まで読み切りたい作品なんです。
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