普通の国語力があれば、どう読んだって自衛隊は憲法違反だし、日米安全保障条約も憲法違反だと分かるはずだ。
如何に曲解しようと、憲法違反であることは明白だと思う。でも、これって戦後半世紀以上にわたり、国民から黙認されてきたのも事実。
実際、自衛隊は憲法違反、日米安保は憲法違反。だから自衛隊を解体しろ、日米安保を解消しろ。そう国政選挙で意見を表明して立候補するのが、本来の民主主義であり、その結果多数決でことを決することが、戦後の新しい平和国家としての日本であるべきではないか。
私が小学生の頃、大学生のお兄さんたちから聞かされた、この勇ましい科白に素直に共感したものだ。子供の私にだって、現状がおかしいことは分かった。それを選挙を通じて正すことこそ、民主主義の王道だと思う。
で、現実にはどうなったのか。
21世紀を迎えた今日の日本で、自衛隊は違憲、日米安保は違憲だと主張する政治家はどれだけいる?いない訳ではないが、探すのが難しいのが実情で、まして国政選挙で当選した政治家は、極めて少数なのが実情だ。
現在、憲法学者たちが盛んに新安保法制は憲法違反だと騒いでいる。それを受けて、安倍政権を攻撃している野党やマスコミも騒いでいる。
私には違和感を禁じ得ない。
憲法学者や野党、マスコミが本当に攻撃すべきなのは、安倍政権ではなく、戦後半世紀以上にわたり違憲状態を黙認してきた我が日本の有権者たちではないのか。
自衛隊は違憲だと認識する一方で、「でも国防は当然の権利だし、、アメリカの指示で作ったのだし・・・」と賢しげに暗黙の承認を与えてきたのは、他ならぬ日本の有権者である。
日米安保に引き込まれて、戦争に巻き込まれ、戦死者がでるのは良くないと思いつつも、「これが敗戦国の現実、アメリカ様には逆らえないよ」と処世術めいた納得をしていたのは、他ならぬ日本の有権者である。
この有権者の支持あってこそ、自民党は長きにわたり日本の政治の主導権を握ってこれた。この有権者たちは、違憲であることを承知のうえで自民党政治を支持してきた。戦争に巻き込まれる可能性があることを承知の上で、自民党政治を支持してきた。
なれが、憲法学者や野党、マスコミが批難し、攻撃するべきは、この有権者たちではないのか。
でも、決して彼らはこの有権者たちを攻撃しない、批難しない。あくまで自民党を攻撃することで誤魔化している。
私はこれを茶番劇だと思っている。誤魔化しであり、自己欺瞞である。こんなクダラナイことに国会審議を潰す連中を、好意的に評価することなんて、とても出来やしない。
食べ過ぎは、なんでも良くない。
極論かもしれないが、水だって飲み過ぎれば内臓に過度の負担がかかり、血液の成分構成を狂わせて人体に害を為す。
アメリカにおいて、トランス脂肪酸がほぼ全面的に禁止されるとの報があった。この報道をみて、それみたことかと賢しげに語る輩(福島瑞穂とかね)がいるが、如何なものかと思う。
欧米とりわけアメリカの食生活におけるトランス脂肪酸含有食品の摂取量は、世界的にみても異常の域に達している。日本だとすぐマーガリンが思い浮かぶであろうが、実際にはフライドポテト、フライドチキン、ヌードル、その他お菓子類など加工食品などにも多く使われている。
問題はその消費量だ。アメリカに旅行、あるいは滞在したことのある方なら、あの巨大なフライドポテトに仰天したことがあると思う。とにかくデカい。あんな巨大なものを、間食として平然と食べる。
アメリカにおいて肥満が問題となるのも当然だと思う。トランス脂肪酸というものは、自然界にも存在するが、加工食品に用いると格段に品質が上がるし、保存性、加工性も高く、それゆえに広く使われている。いや、使われ過ぎであった。
だからこそ、規制が必要となった。厄介なことに、中途半端に規制すると、必ずやその抜け道を食品メーカーは探し出す。彼らが主張するように、過剰に摂取しなければ、その危険性は大きく減退する。それは事実だが。現実には人々は、多数の加工食品を購入し、知らずうちに多量のトランス脂肪酸を摂取してしまう。メーカーの自主規制だけでは無理があるのは必然であった。
だからこその全面禁止という極論に至ったようだ。さすが禁酒法の国、法律を決めれば問題が解決すると安直に考える伝統は治っていない。トランス脂肪酸自体は、自然界にも微量に存在するもので、長い進化の歴史のなかで多くの生物は、それを摂取して生きてきた。
ただ、工場で加工食品を大量生産する人間ほど、多量にトランス脂肪酸を摂取する生物はいなかった。その取り過ぎが体に害を為すのは当然だと思う。ただ、世界屈指の食糧大量消費国であるアメリカは、あまりに極端であったと思う。
日本は欧米の文化を素早く摂取することで、先進国として名を挙げた訳だが、率直に言って、今回のアメリカのトランス脂肪酸全面禁止をそのまま導入する必要はないと思う。なぜなら、食生活が違い過ぎるからだ。
日本では、アメリカほど大量のトランス脂肪酸を取ることは稀だ。よほどのジャンクフード好きでも、その量からしてアメリカの域には達しえない。随分減ったとはいえ、米食が多い日本は、パン食が中心の欧米とはその食事の内容が大きくことなる。
ただし、パン食派の増加と、食生活の欧米化がある程度進んでいるのは事実なので、表示義務の徹底化などは必要だと思う。思うが、トランス脂肪酸よりも、日本の場合は塩の過剰摂取のほうが遥かに問題だ。
WHOの定める一日の理想の塩分摂取量は5gだが、日本では成人男子の場合その3倍近く摂取している。私からすると、トランス脂肪酸よりも、塩分の過剰摂取こそが人命にかかわる大問題である。
人は塩なしでは生きていけない。しかし、過剰に摂取すれば当然に害が生じる。ところが、この過剰の定義が案外と難しい。人間は数百年前、いやそれ以前の猿人の頃から、肉体運動によるエネルギー摂取としての食生活が基本となっている。
現在の先進国の人間のようなデスクワークによる労働は、想定外の生き方である。だから、日本人も、農作業に勤しんでいた頃には、味噌汁、漬物などから多量に塩分を摂取しても、現代ほど健康問題は生じなかった。あの頃の平均寿命の短さは、病害であり、栄養不足が原因であった。
それは欧米でも同様で、農作業、牧畜作業などに勤しんでいた頃は、パンに多量のバターを塗り込んでも、栄養過多とはならなかった。ところが、皮肉なことに、農耕トラクターなど農作業にも機械化が進み、汗をかく労働が減るに従い、カロリーの過剰摂取が健康を害するようになった。
おかしなことに、肉体作業は減り、それほどのカロリーは必要としないにも係らず、人は以前と同様の食生活を変えようとしない。だからこそ、かつてはなかったトランス脂肪酸や塩分の過剰摂取による健康被害が生じてしまう。
単に禁止すれば良いといった問題ではないと思う。ちなみに私自身は日頃はバター派であり、滅多にマーガリンは使わない。健康の問題ではなく、味の問題である。バターは格段に風味が良く、バター風味のマーガリンでも物足りない。
健康問題は大事ではあるが、美味しい食生活を幸せの基本だと思っているので、過度にトランス脂肪酸だけを捉えることはしません。
コルト社が破産した。
もちろん、あのコルト・ガバメントで有名な銃器メーカーのコルトである。17世紀からの伝統を持つ銃器メーカーの名門でもある。そのコルト社が破産だというのだから、驚かざるを得ない。
だが、コルト社の経営危機は、もう何年も前から云われていたことである。コルトといえば、コルト・ガバメントと呼ばれるほど軍や警察などに採用された銃として名高く、ガバメントとは官制支給品のことである。
それゆえに、広くアメリカ社会に普及した銃器として有名なのだが、反面民間市場での評価は、それほどでもない。むしろライバルであるスミス&ウェッソン社に大きく水を開けられていたのが実情だ。
それどころか、外国メーカーでもあるベレッタやヘッケラー&コック、SIGなどのライバルと比べても、魅力ある銃だとは思えなかった。ただし、信頼性は高いとは思っていた。
もっとも、私は銃を撃った経験はない。ただ、かなりの量のミステリー小説や、冒険小説、スパイ小説などを読んでいるので、銃器には自然と詳しくなっているだけだ。
そんなド素人の私ではあるが、軍事にド素人のマスコミが報じる記事のいい加減さには、毎度のことながら頭にくる。アメリカ政府の軍事費削減を受けて、売上を大きく減らしたのは事実である。またアメリカ国内の市場の縮小も、ある意味事実である。
だが、コルト社が経営危機に陥った真の原因は、相次ぐ損害賠償訴訟を抜きにしては語れない。知られているだけでも、数十億ドルの損害賠償訴訟による損失が生じている。これはコルト社だけの問題ではない。
アメリカの製造業社を悩ませる最大の問題は、弁護士主導による過剰な賠償訴訟の激増である。とりわけ製造責任を問う訴訟の多さが、アメリカにおける製造業の衰退の大きな一因となっている。
その証拠に、コルト社は破産したが、コルト社製の銃器の販売は今後も続く。海外で生産されているコルト社製の銃器は、世界中に売られている。銃器市場が縮小されているなどと間抜けな報道が出るのは、第三諸国で製造販売される銃器のデーターが未公表なものが多く、信頼できるデーターもないがゆえに報道されていないだけだ。
実際、冷戦終結後、米ソ、NATO、旧ワルシャワ条約機構の諸国において、軍に対する銃器の売り上げは大きく減少している。しかし、経済的に急成長したアジア諸国は、それを十分補完するだけの武器を購入している。もちろん、世界中に拡散しているテロ組織だって、銃器の大量購入を続けている。
日本のマスコミの大きな欠点は、軍事音痴、戦争嫌悪、武器無知であることだ。兵器がなくなれば戦争はなくなるとでも思っているらしい。如何に人間という生物に関する認識が甘い、もしくは偏っていることが良く分かる。
コルト社はたしかに倒産しました。しかし、コルト社製の銃器は、これからも世界で作られて、売られていくことでしょう。それが現実です。
やっぱり食べなれた定食はイイねえ。
先週末、相模原で行われたポップ・サーカスの公演を見に行って来た。ここしばらく、シルク・ド・ソレイユばかり3回見ている。どれも内容は違うが、芸術性を前面に出した前衛的なサーカスであり、それは素晴らしいものだ。
だが、初めて観たポップ・サーカスは従来の伝統的なサーカスであった。出演する動物こそ犬だけだが、ピエロや怪力芸、バランス芸、定番の空中ブランコと懐かしくも楽しい演目。
シルク・ド・ソレイユが意欲的な創作フレンチ料理ならば、ポップ・サーカスは気軽に入れる割烹料理店のおまかせ定食の味わいであった。どちらがイイとか悪いとかではなく、それぞれ十分楽しめるものであった。
ちなみに私が行った日は、相模原での最終公演日の最終ステージであった。出演者もお疲れなのか、あるいは気が抜けていたのか、演技にけっこうミスがあったが、そこはプロの修正が入る。これはこれで面白かった。
率直に言って、木の下大サーカスや、ボリショイ・サーカスに比べると少し落ちる気もする。だが、その分親しみやすい公演であったのも確かで、リラックスしてサーカスを楽しめた。
一番、印象に残っているのは、ピエロによるアナ雪のパロディだったりする。あれは面白かった。2時間ほどの演目であったが、楽しい週末でしたよ。
何故だか知らぬが、日本を止む無く脱出する人は東南アジアに向かうことが多いらしい。
そのことに気が付いたのは、バブル崩壊後のことであった。当時、莫大な借財から逃れるため、海外へ逃亡する人はけっこういた。守秘義務が絡むので、詳しくは書けないが、逃亡先は東南アジアが多かったことは確かだ。
バブル紳士などと揶揄されていたが、紳士というには余りに逞しい御仁が多かった。ふてぶてしいと言っても良く、その図太さに呆れたものである。ただ、せっかく海外脱出したのに、帰国して捕まってしまった人も少なくない。
概ね、金を使い尽くしての帰国であることが多いが、金の問題よりもホームシックに陥っての帰国が多いように私には思えた。人間という生き物は、社会性が強く、ジャングルだろうと砂漠であろうと生きていけるば、家族とか会社とか、なんらかの集団に属していないと不安に陥るらしい。
つまるところ、人恋しさに敗れての帰国が多いように思えた。実際、いくら金があっても、心の寂しさを埋めることは難しい。金で囲った女たちの家に住んで、擬似的な家族を作る人もいるが、多くの場合金の切れ目が縁の切れ目。
最後に隠しておいた航空機チケット一枚で、這う這うの体で帰国した人もいた。だが、表題の本を読むと、その最後のチケット代でさえ使い切り、捨てられるように放り出された憐れな日本人も少なくないようだ。
しかし、興味深いのは、そんな惨めな日本人がなんとか帰国するも、一年経たずして再び東南アジアへ飛び立っていることだ。表題の本の著者も驚いていたが、なんとなく分かる気がする。
良くも悪くも日本は、苛烈な競争社会だ。そして負けた者に冷たい社会でもある。一度でも梼Yしたり、夜逃げをすると、その悪評は生涯付いて回る。再起して成功する人もいる。たしかにいる。だが、どれほどの屈辱を噛み締めて再び立ち上がったのか、その苦難を思うと恐ろしくなるほどだ。
そして立ち上がれず、貧困と屈辱の汚泥に首までどっぷりと浸かった敗残者に対し、日本社会は極めて冷淡で酷薄だ。そのことを私に指摘してくれたのは、東京郊外の介護施設で働くフィリピン人であった。
「ニッポンジン、ヨワイヒトニツメタイ」
そう云われて、すぐに返答することが出来なかった。なぜなら事実だからだ。
率直に言って、日本社会は落ちぶれた人に対して冷たい。理由の如何を問わず冷たい。路上で垢だらけの体と、フケと皮脂で固まった悪臭を放つ人に、助けの手を差し伸べられる人は極めて少ない。
特に高度成長以降、一億中流社会が実現してからが著しいように思う。その前、石油ショック前だと、まだ日本にも人生の敗残者に対して、控えめながらも優しい手を差し伸べる人はいたと思う。
お情けで生きている人たち。私の幼少時には、たしかにそんな人たちがいたと思う。ドブ川の岸辺の今にも倒れそうな木造アパートのその壁に無理やり壁を立て鰍ッた、簡易倉庫のような家で暮らしている人を私は知っていた。
落ち武者のようなザンバラ髪で、銭湯は断られるため、公園の水飲み場で身体を洗っていた光景を覚えている。私たち子供が、「やーい、野良人、野良爺」と囃したて、からかったりすると、近所の大人から「可哀そうなことをするな」とどやされたものだ。
普段はケチで、五月蠅い子供が嫌いなアパートの大家が、そんな汚い大人に残り物の食事を分け与えていたのを知っていた。大晦日には、残り湯ではあっただろうけど、深夜に家の風呂に入れさせていたことも聞いていた。
他にも、握り飯や残り物を差し入れる大人がいることも聞いていた。そのアパートの大家の子供は、それが不愉快であったようで、よく私らに愚痴をこぼしていたから、間違いなく事実であろう。
だが、バブルがはじけ、瀟洒なマンションが立ち並ぶかつてのドブ川のあたりを見渡しても、あの野良爺さんはいない。もう居場所がないのだろう。居場所をなくさせたのは、普通の良識ある市民たちだ。乱暴でもなく、法律を順守し、模範的な市民ではあるが、人生の敗残者を自分の周囲に置くだけの度量はない。
快適な自分の人生のなかに、人生の敗残者を置いておくような気持ちのゆとりはない。それが世界屈指の経済大国である日本の一面である。
そんな日本に嫌気が刺して、日本を逃げ出した日本人たち。表題の本には、そのような男たちの生き様が描かれている。興味がありましたら是非どうぞ。