善意の馬鹿ほど、自らを省みないものらしい。
先週末、国会周辺に安倍内閣の新安保法制に反対する平和を愛する市民様たちの集まりがあったと報道されていた。主催者(ここ重要)発表では、参加者は2万5千人だとかで、健康ランドの休憩室のTVで見ると、わざわざ人が密集しているところだけを映して、如何にも盛り上がっているかのように報じていたのが微笑ましい。
かつての60年安保闘争の100万人に遠く及ばないのは致し方ないが、おそらく主催者発表の数字は水増しというか願望で、実数は1万程度であろう。TVでは、思想的背景がない普通の市民が参加しているかのような報じ方をしていたが、参加者の大半はプロ市民であろう。
情けないというか、憐みさえ感じる侘しい反対運動である。で、これでいいのか?
断言するけど、安倍内閣が今国会での通過を目指している新安保関連法制は、まちがいなく憲法違反である。もっといえば、安保そのものが憲法違反だし、当然自衛隊は憲法違反の組織そのものである。
つまり、戦後の日本は憲法をまるで守らない法治国家である。このことこそ、真剣に考えるべきことだと思うが、なぜかそこまで踏み込む政治家、識者は少ない。
実をいえば、日本人は古来より憲法を守らぬ国民であった。云うまでもなく、最初の憲法は聖徳太子の作った欽定憲法である。この憲法は、どの時代、どの政権、どの政治家にあっても、まるで守られない憲法であった。
罰則はなかったし、守られない場合の対応も記されていない欠陥憲法であった。いや、守ることよりも、目指すことを記した目標憲法であったという方が適切かもしれない。
もっといえば、この憲法があることを知らない日本人のほうが多かったのではないかと思う。少なくとも、明治に至るまで憲法が、政治の議題に上ることはなかった。上がるはずがない。なぜなら、存在しないも同様の存在であったからだ。
その癖、聖徳太子が作った憲法としてのタイトルだけは知られている、世界でも稀に見る奇妙な憲法である。そもそも憲法という用語を充てるべきか、大いに疑問があるほどだ。
この憲法無視の慣習を持つ我が日本国民であるからして、憲法9条についても、それをありがたく飾る一方で、それを守る気は毛ほどもないのが戦後の日本である。
ちなみに、憲法以外の法令には極めて従順な世界でも稀に見るほどの安定した法治国家である。その社会の安定性、治安の良さ、賄賂を必要としない効率的(世界水準でみて・・・だが)行政など、間違いなく良く出来た法治国家である。
ただ、憲法だけは守らない。
それが現代の日本である。私は不満であるが、おそらく大半の国民は、今のままで満足なのだろう。世界でも指折りの軍隊を持ち、そのくせ平和国家面を主張できる。こんな恵まれた環境を変える必要なんてない。だから、憲法改正は決して行われない。
嫌な予想だが、三発目の原爆が東京にでも落ちない限り、このぬるま湯に浸かって満足しているのだろうと思う。まァ、日米安保がある限り、その可能性は引くと考えられるので、殊更憲法改正の可能性は低いでしょうね。
善意の馬鹿の典型とも云える、平和を愛するプロ市民のお方々は、憲法をまるで守らぬ日本の政治とそれを追認している有権者たちの在り方をどう思っているのでしょうかね。
下手なホラー映画より怖いのが、寄生虫に罹患した患者の苦しみをドキュメントした番組だ。
CS放送でたまに放送されているのだが、番組予定表に載っていると必ず観るようにしている。内臓を食い荒らす寄生虫から、脳内に入り込んで患者を激痛でのたうちまわさせる寄生虫、そして目の瞳孔の奥に潜む寄生虫。
人間にとって、現生人類に進化するより遥か以前より、この寄生虫との関わりは続いている。ただし、寄生虫の一種である回虫の中には人体に棲息している間は、アレルギー反応を抑制する役割を果たすものがおり、この回虫を根絶して以降、花粉症が激増したのは皮肉としか言い様がない。
寄生虫は概ね宿主である生物に多大な苦痛を与える以上、回虫の根絶を図ろうとした先人の努力は讃えられるべきであろう。特に豚は、なぜだか内臓が人間のそれと似たところが多く、人間用の医学実験の検体として活用されるほど人に近い。
そのせいか、豚に寄生する寄生虫などは、人にも適合しやすく容易に大繁殖してしまう。だから古来よりユダヤ教やイスラム教が豚を禁忌と定めたのも故なきことではない。家畜としての豚は、きわめて有益なのだが、その点を考慮してもなお、豚肉の危険性を強く認識していたのだろう。
ところで、最近のことだが、厚生労働省が豚肉のナマ食を禁じる通達を出した。生の豚肉が危険なことは常識だと思っていたが、一昨年の牛の生レバー禁止以来、豚の肝臓の生食を提供する店が出ていたようだ。
正直言って呆れている。牛の生レバーは処理させ適切ならば、必ずしも危険なものではない。それは慣習牛の内臓肉の取り扱いに馴れているコリアの食文化をみれば分かる。まだ内臓肉の扱いに習熟しているとは言い難い、日本の食文化の未熟さから事故が起きたのは不幸なこと。
でも、長年牛の生レバーを提供していた飲食店には、実に迷惑な話である。それを一律に禁じた日本の役所の事勿れ主義に辟易したものだ。しかし、豚の生レバーは、牛のそれとは異なる。寄生虫だけでなく、肝炎ウィルスなどの危険性が格段に高い。
これはナマ食を禁じられても当然だと思う。そもそも人間の体は、生肉を適切に処理できるようには出来ていない。肉質が軟らかい魚はともかく、哺乳類の肉は固く、本来雑食性である人間に適した食料ではなかった。
実を云えば、肉食性の獣でさえ、哺乳類の肉の消化には苦労している。ライオンなどがサバンナでゴロゴロと寝そべる映像を観た方は多いと思うが、あれは肉の消火に時間がかかるがゆえの避けられぬゴロ寝である。
肉食は、草食に比べて格段に獲得エネルギーが多い。しかし、その消化には多大な時間を労する。また鋭い牙と噛み切る強靭な顎が必要であり、雑食性の哺乳類には、かなりの労苦となる。それでも肉を食べるのは、採取できるタンパク質が良質で栄養価が高いからだ。
人類の祖先も、肉を好みはしたが、身体的に弱かったがゆえに草食中心とならざる得なかった。そのことは、人類の歯の構成をみれば分かる。その歯の大半が、草食に適した歯であり、肉を噛み切るような犬歯は少ない。
それでも肉を欲したのが我らが先祖である。その欲望ゆえに石器を用いて、獲物を倒し、肉を切り分けた。しかし、その堅い肉の消化には相当苦労したと思われる。だが、火の使用が革命的に食生活を変えた。
肉を火により焼くことで、格段に消化することが早くなった。肉の大量摂取は、脳の進化にも影響を与えたとされる。肉食後の人類は、大脳皮質の発達が著しくなり、知能を向上させるようになり、地上の覇者たる道を歩み始めたと先鋭的な人類学者が唱えるほどだ。
大型の獣を狩るために、武器を発達させ、言語による連携戦術を発達させ、その獲物の肉を保存するために燻製や塩漬けの技法を開発させた。まさに肉に対する欲望が、人類を進歩させたといっても良い。
人類の進歩の立役者といってよい肉食の嗜好ではあるが、それでも人類の英知は豚肉のナマ食を禁じた。にもかかわらず、日本において豚の生レバーを食べるようになったのは、無菌豚の育成などの他に、刺身に代表される生食文化があったからだと思う。
いくら無菌といっても、生物の体の仕組みを考えれば、完全な無菌状態の生物はあり得ない。せいぜい菌が少ない程度だと思う。当然、無菌豚の生レバーには、肝炎ウィルスもいたし、寄生虫さえいたかもしれない。
やはり、豚の生食はダメだと私は思います。
どの面下げて、言っているのかと些か皮肉な気分となる。
G7の会合において、シナによる海洋進出をけん制する目的で「力による変更」は認めないと声明を出したそうである。もっとも単なる声明に過ぎず、実効性のある行動を伴うものではないことは明白だ。
それに、シナの海洋進出を警戒するのはアメリカと日本だけであり、他の国々は口先だけのもので、積極的でないことも明白だと思う。
その記事と声明を読みながら、私はついつい皮肉な気分に陥るのを避けられない。いったい、力による変更でないものが、どれだけあったと言うのだ。人類の歴史を鑑みれば、力による変更こそが中心であったのが事実であったはずだ。
まだ近代国家が成立する以前から、縄張りとか勢力圏といった概念はあり、その変更があるとしたら、多くの場合は戦争によるものに他ならない。古代のシナの帝国は、遊牧民族を恐れて万里の長城といった壁を築いたことで知られている。
古代ローマもまた、世界各地にローマ式の要塞と、それを本国につなぐ舗装された道路を建築して帝国を守った。オリエントではペルシャの皇帝たちが、「王の道」と称された街道を建築し、早馬による連絡網を構築した。似たようなことは、エジプトでもインカでも行われている。
力による変更が当たり前であったからこそ、力により変更を認めない体制を築き上げる。それが国家として当然のことだ。現在の地球を覆う目に見えない国境線の多くは、第二次世界大戦を契機に引かれたものだ。
これは間違いなく「力により変更」された結果であり、国連すなわち連合国が武力により勝ち取った戦果である。G7というものは、半世紀前の力により変更させられた世界を守るための経済的方策の一つである。
だから、ここ20年ほどで急速に力を付けて勢力圏の拡大を目指すシナに対して拒否反応を示した。それが今回の「力による変更を認めない」との声明につながっている。ただ、それだけのことだ。
別に私は、戦後の欧米による支配構造に異を唱えている訳ではないが、大同小異というか、似たり寄ったりの考えに皮肉を感じざるを得ない。もっとも、これこそが覇権国の本能であり、人類の本性そのものである。
この冷徹な現実こそ、平和ボケした日本が直視すべきもの。安保が違憲などという下らぬ時間浪費をしている暇があるのなら、平和を守るための実効性のある現実的方策こそを考えるべきだと思います。
世の中には、いろんな見方がある。
先月末に報じられ、未だその騒動止まないのがFIFAの理事たちへの裏金疑惑だ。この騒動のミソは、アメリカの司法省が告発しているところだ。
アメリカ政府が、自国内のみならず、世界中で贈賄汚職などについて問題視しだしたのは、私の記憶では1990年代のWTO/GATTの改変と、新たな世界貿易のための共通ルール作りを云いだした頃だと思う。
要するに、アメリカ政府は、世界各地で行われている政府高官に対する不公正な贈収賄の習慣が、アメリカの企業に悪影響を与えているだけでなく、麻薬や武器取引による汚いお金の洗浄(マネーロンダリング)に使われていると言いたいのだ。
これは、既に日本にも影響しており、現在の法人税法では企業が海外で不正に支出した金額を否認する規定が設けられている。また日本政府自体も、海外のおける不公正な商慣習や、贈収賄について以前よりも厳しい視線でみるようになっている。
だが、私はいささか懐疑的である。贈収賄が悪いと言うのは簡単だ。しかし、それを悪いと断じるには、その社会が公正に運営されていることが基礎条件だと思う。この場合の公正さとは、その国の行政機能のことを指す。
多少の偏見と事実誤認はあるだろうが、おそらく世界の大半の国は、その社会の行政機能は決して公正ではない。役人を動かすには賄賂は欠かせないし、賄賂なくしては社会がうまく機能しない。
飲食店一軒を出店しようとするだけで、警察、保健所その他の役所に付け届けが必要となる。それをしなければ、陰に日向に妨害されて、仕事どころではない。そんな国は珍しくないどころか、普通にいたるところにあるのが現実だ。
アメリカや日本などの先進国からすれば、とんでもない悪質な国々に見えてしまうが、それはあまり公平な見方とはいえない。なにしろ公務員の給与が安すぎる。賄賂がなければ家族を養えない実情を思えば、多少の出費はやむを得ず。そんな場合も少なくない。
賄賂と書くと、頭ごなしに悪いことだと思うのは先進国の傲慢だともいえる。そもそも政府をはじめとして、公的な機関が真っ当に機能しておらず、また税収の確保もままならぬ国だと、末端の下っ端公務員には賄賂こそが生計を立てる手段となるのは必然だ。
話をFIFAに戻すと、本来はサッカーが盛んな国の交流の場であり、国際大会などの調整機関に過ぎず、多額の裏金が動くような場ではなかった。だが、TV放送の国際化と、その試合の放送権とかが営業的に莫大な利益をもたらすにつれて、裏金が動くようになってきた。
その最大の契機となったのが、皮肉にもアメリカ大会であった。プロサッカー不毛の地と呼ばれたアメリカは、四大スポーツ(アメフト、バスケ、野球、アイスホッケー)以外のスポーツには冷淡であった。
しかし、サッカーが国際的に金になると分かった途端、広告代理店やファンド、弁護士などが目をつけた。輸出にそれほど熱心でなかったアメリカが、輸出に活路を見出そうとした時期と一致していたことも災いした。
サッカーは金になる。そのことが分かってから、アメリカは急速にサッカー利権に口を出すようになってきた。すなわちグローバリズム、アメリカ流商売の押し付けでもある。しかし、それに抵抗したのが、プラッター会長に率いられたFIFAであった。
この流れを理解すれば、今回のスイス司法当局によるFIFA幹部たちへの取り調べが、アメリカの司法省の意向に沿ったものであった背景が分かると思う。単にスメ[ツと裏金という視点だけは、決して理解しえないのが今回の事件である。
一度、新聞などを読み返してください。日本のマスコミの報道のレベルが良く分かりますよ。
夢と希望は大切なものだが、それですべてを解決するのは無理がある。
映画を観た後で、私は後ろ向きの感想をボヤかずにはいられなかった。ヒロイン役の少女が偶然手にしたコインが、夢の遊園地として作られたディズニーランドに秘められた謎へと導いてくれる。
コンセプトとしては面白いし、それなりに画面に引き込まれるだけの内容はあったと思う。ヒロインを差し置くジョージ・クルーニーの出しゃばり具合はともかくも、ロボット役の女の子の演技も目を引く。また映像的な美しさ、楽しさも合格レベルだと思う。
それでも私は、映画館を出た後でのモヤモヤ感に悩んだ。
確かに夢や希望は大切なものだ。その夢を見て、希望を捨てない人間は、果たしてその夢や希望に値する生き物なのか。その疑問が脳裏を離れない。近代文明は欧米の価値観から作られたものであり、その思想的基盤にはキリスト教があることは周知の事実である。
キリスト教におけては、人は神に作られたものであるがゆえに、人は完成されたものであることが前提である。しかし、現実には人は不完全なものだ。理性を踏みにじっての蛮行に及び、病魔に苦しみ、老化から逃れることもできない。
だからこそ悪魔の存在は必要だ。人間と敵対する存在あってこそのキリスト教であり、キリスト教の神を信じぬ異教徒もまた悪魔同様に敵対する存在として認識される。
唯一絶対無二の神が創りたもうた人であるがゆえに、完全でなければならないし、そうでないのなら、その完全さを損なう悪魔の存在が必要になる。これが欧米の近代文明における大きな制約となっている。
だが、私には現在の人と呼ばれる生物が完全、あるいは完成体だとは思えない。むしろ進化の途上にある不安定な生き物だと考えたほうが自然だと思う。進化には、外的要因(地球規模の天災など)の他にウィルスによるDNAへの干渉など内的要因もある。
現在の人類は、氷河期を生き延びた種であり、長きにわたる氷河期において、幾多の亜種ともいうべき人類との生存競争を勝ち抜いた種でもある。再び環境が激変すれば、今のままでいられる保証はなく、新たな種に滅ぼされる可能性は十分あると私は考えている。
つまり人類は不完全な存在だと思う。不完全であるがゆえに可能性を秘めているとも云えるが、未来永劫今のままでいられないのは確かだと思う。だが、この映画に限らず、欧米で製作される作品では、現行の人類こそが未来に続くと無意識に想定されているように思えてならない。
この疑問ゆえに、私は映画館を後にして、素直に面白い映画だと思えなくなってしまった。ただし、私のような余計な悩みに気をとられなければ、けっこう楽しめる作品だと思います。機会がありましたら是非どうぞ。