夢は必ず叶う。
私はこの言葉が大嫌い。現実はむしろ残酷で、夢から醒めれば冷たい現実が待ち受けている。
ところがこの現実の冷徹さに子供が傷つくのを厭う親が少なくない。どんなに欲しても叶わぬ希望があることを教えようとせず、その場限りの優しさで誤魔化す。
そのような育て方をされた子供は、大人になっても残酷な現実を受け止めることを嫌がるようになる。現実から目を背け、空想の世界に逃げる。いや、それならまだ害はない。厄介なのは、自分の意に染まぬ現実に苛立ち、それを他者のせいにして憎むことだ。
つい最近、埼玉でおきた訪問診療を行う医師が殺傷された事件が起きたが、私はこの犯人がそのようなタイプではないかと想像している。
マスコミの報道では、犯人の母親を訪問診療していた頃から、既に治療方針を巡って医師と揉めていたらしい。あげくに母親の死後、犯人に頼まれて弔問にきた医師に、甦生させろと無理難題を押し付けて断わられると、猟銃でズドンである。
この犯人は66歳無職とのこと。高齢の母親を介護していたそうだが、複数の病院でトラブルを起したとの報道もある。おそらく母の年金と生活保護で暮らしていたのだろう。
私からすれば60代というのは自身の死をも考える年代であり、親の死であったとしても、それは慫慂として受け入れるべきが普通だと思っている。しかし、この犯人にはそのような心根はなく、むしろ母親を必死で介護する自身を美化することで貧しい生活を耐え忍んでいたのではないかと想像してしまう。
少し酷な言い方をすれば、母親を介護する反面、母親にすがるような甘えを感じてしまう。その母親の死は、彼の甘えを断ち切る契機になるはずだが、それに耐えきれず、八つ当たりのように周囲の人間に当たり散らしていたのではないかと邪推してしまう。
多分、この犯人、子供の頃から相当に母親に甘やかされて育ったのではないかと思う。母親以外に頼るべき術がない生き方になってしまったのではないか。だからこそ母親を失って自暴自棄になったのかもしれない。
たかがニュースで見聞きした程度の事件で何を興奮しているのかと思われるだろうが、似たようなタイプを幾人か知っているので他人事とは思えない。もちろん、各家庭ごとにいろいろと事情はあるであろうことは分かる。
でも私が知る範囲では、この手の我儘犯は、子に甘い親に育てられたケースが大半だ。躾け不足というか、子供に厳しさに耐えることを教えていない。いや、子供に好かれようと思ってか、子供の欲望優先の子育てをして、それを優しい教育だと決めつけていた。
今風に云えば、「叱らない教育」って奴だ。私はこの手の甘やかし教育を受けた子供がまともに育ったケースを知らない。いや、この叱らない教育は、私に言わせれば教育放棄に近い。
よく母親がこのような甘い躾の元凶のように批難されることがあるが、では父親は何をしていたのか。父親も又、同罪で仕事に逃げて、子供を躾ける辛さから逃げて、母親に押し付けて知らん顔している。
私に言わせれば、父親もまた教育放棄の主犯である。この手の甘やかし放題の家庭環境で育った子供は、不思議なほど他者に対して攻撃的になる。自らの心の弱さから厳しい社会に耐えられないことを、他者を攻撃して誤魔化す。
もしかしたら昔からいたのかもしれないが、私には戦後の経済成長中心の社会が産み出した欠陥に思えてなりません。
歴史が長い割に、建築土木においてさしたる遺跡がない珍しい国が隣の朝鮮半島である。
これは主として儒教を妙に解釈して信奉していたことが大きい。春秋戦国時代の思想家である孔子は、戦乱の続くシナの大地に絶望し、「古の周の時代を手本にせよ」と説いて、平和な社会の到来を願った。
これを現状を変更することを厭い、現状維持こそが理想の社会だと解釈したのが朝鮮半島の住人である。だから驚くほど社会が停滞した。秀吉の命で半島に侵攻した日本の武将たちが驚いたのは、半島が貧しい国である以上に、未開墾の土地が拡がっていたことだ。
おまけに山は禿山で植林もされず、橋は稚拙な作りで、街道の整備もろくにしていない未開の地であった。車輪を作る技術がなかったため、水車も作れないから灌漑施設も作れず、農業は停滞したまま。
新たな建築物を作るのではなく、修繕を重ねるか、簡易な構築物を家屋としている貧しい国、それが朝鮮半島であった。支配階級である両班と称する貴族たちの家屋でさえ、面積が広いだけの稚拙な建築物であり、難しい工事はシナから職人を呼んで作業させていた。
先月、南コリアで報じられたマンションの壁の崩落事故の原因は、明らかに手抜き工事だと思う。そのような手抜きが横行しているのは、金儲け優先というよりも、建築土木の歴史が浅く稚拙なため、立派な建築物を作らんとする気概がないことが大きいと思う。
これは北も似たようなものだ。首都平城にはバカ高いホテルがあるが、完成当初から事実上廃墟と化している。このホテルの建築現場を、経済評論家として知られていた故・長谷川慶太郎が視察している。彼は北コリアの労働者が、氷点下の寒さにも関わらず、コンクリを温めずに施工しているのをみて、このホテルは完成しても使えないと予測していました。
コンクリートは人類が使用している建築材料のなかでも、しっかりと施工すれば千年以上持つ代物です。しかし、あくまで正しく施工していれば、です。土木建築の歴史の乏しい半島では、簡単な建築工事しかやったことがないので、高度な建築は不慣れなのでしょう。
古代のローマ帝国のコンクリ技術は凄まじく高度で、その成果は今も見ることができます。西ヨーロッパの都市に多くある石材とコンクリにより作られた住宅は、今もその美しい姿を残している。日本でも戦前より多くのコンクリート造りの建物が建造されたものです。
だが、その一方で手抜き施工工事も少なくない。私は仕事上、建築業界の方との付き合いが多いが、このコンクリの施工上の手抜きには、皆けっこう悩まされている。大手の建築会社といえども、実際の工事は下請け、孫請けの会社が担当するのが普通だ。
この作業の階層状況が手抜き工事の温床となっている。実際、私が顧問を務めていた建築会社が十数年前に完成させた建物について、最近になって基礎工事の手抜きが発覚して訴訟に至り、折からの不況と相まって倒産に至ったケースもあった。
その建築会社の社長さんは誠実な人柄で仕事には厳しかったはず。でも、その事故物件の建築時期は多忙を極め、複数の現場を飛び回りながら営業もこなす獅子奮迅ぶりであったため、下請け事業者の手抜きを見抜けなかった。
日本でも頑丈とされるコンクリート建造物に手抜き施工が散見するのは確かだ。まして土木建築の歴史の浅い半島で、しかも贈賄文化が定着してる半島ならば、コンクリの手抜きによる益出しは珍しくないのだろう。
地震の少ない半島ゆえに目立たなかっただけで、この先老朽化によりコンクリの手抜き施工が数多く見つかると思います。今回は民間の建築物ですけど、この国、驚くべきことに軍の設備でも手抜きは珍しくない。
朝鮮戦争直後は、危機感からしっかりと施工していたようですが、現在はおそらく手抜き、中抜きが横行しているようです。極東アジアは今も冷戦の最中である自覚、あるのでしょうかね。
日本で花開いたプロレス兄弟、それがマレンコ・ブラザースだ。
父のボリスはアメリカで悪役レスラーとして知られたが、なぜかカール・ゴッチと仲が良く、マレンコの二人の息子もゴッチ道場でレスリングを学んでいる。それゆえに、ショーマンシップに徹したアメリカのプロレスとは肌が合わなかった。
そこでゴッチの勧めもあり、日本のUWFで再デビュー。技の掛け合いや、パワーとスピードのある本格的な試合を好む日本のプロレス界は二人にとって理想的であったようだ。
その後、二人は全日本プロレスへ行った。ここでダイナマイト・キッドとデイビボーイ・スミス組とマレンコ兄弟とのタッグマッチは、名勝負として名高い。私はこの試合はTVで観ているが、ものすごく熱くて、レスリングのレベルの高い試合だったと記憶している。
その後、兄のジョーは藤原組で本格的なレスリングに熱中し、その求道的な姿勢で高い評価を得た。カール・ゴッチに心酔していたせいか、年を経るごとに似てきたのがちょっと怖かった。ちなみにプロレスは好きだが、一定レベルの相手でないとリングに立つのは嫌だった。引退後は本来目指していた薬剤師をやりながら、師であるゴッチの死を看取っている。
ちなみにゴッチは遺骨の一部を日本で埋葬し墓も建てている。その際にジョーはわざわざ来日して葬儀に立ち会っている。ちょっとアメリカ人離れした感覚であるが、それだけ日本に馴染んでいたのだろう。
一方、弟のディーンほうは新日本プロレスへ行き、そこでワイルド・ペガサス(クリス・ベノア)やブラックタイガー(エディ・ゲレロ)の二人と邂逅し、志を同じくする仲間としてスリリングなプロレスを満喫した。
なにしろその頃、新日本では獣神サンダーライガーこと山田が、日本全国の大手から弱小団体までを集めたジュニア・ヘビー級のプロレスの祭典を開催して、ハイレベルな試合を展開していた。そこでも外人組三人は思いっ切りプロレスをエンジョイしていた。
日本ではあまり知られていないが、アメリカにおいてジュニアヘビー級のプロレスの面白さを伝えたのが獣神サンダーライガーである。ヘビー級とは一味違うスピーディでテクニカルなプロレスは、ショーマンシップ満載のエンターテイメントとしてのプロレスに飽きてきたアメリカのファンに評価された。
だからこそ、クリスやエディ、ディーンの元にアメリカから誘いがかかった。日本のプロレスを気に入ってはいたが、やはり本国アメリカで一旗あげたい気持ちから三人は帰国する。三人はアメリカのプロレスを変えてやるとの思いから、各地で激戦を繰り返し遂にはチャンピオンの座に就く。その時、他の二人は我がことのように喜び合ったという。
しかし不幸なことにクリスとエディは若くして亡くなり、ディーンもリングを去った。裏方に回ってアメリカのプロレスを支えている。今もアメリカのプロレスを変えたいという三人の意志を引き継いでいるのだと思う。
兄と弟、共にプロレスをやりながらも目指すものは違ったが、兄弟仲は良かったようだ。私にとって嬉しいのは、二人が薬物やアルコールなどで悲惨な晩年を送ることなく、今も健やかに暮らしていることだ。
人間と云う二足歩行哺乳類が地球上に生息域を広められた最大の原因は、集団戦闘に長けていたからだ。
個体としての人間は、強大な牙も鋭い爪もない。筋力もさほど強くないし、反射神経だってさほど優れている訳ではない。それにも関わらず、他の猛獣たちを撃退し、自らの棲息領域を拡大できたのは、集団戦闘すなわち戦争に強かったからだ。
その優れた知能で会話により集団での行動を統制し、手先の器用さで石器や弓など武器を活用し、一対一では決して勝ち得ぬ他の哺乳類との生存競争を勝ち抜いた。そして、その経験を子孫に伝えることが出来た。
人間と文明について考察するには、人間と戦争との関係は決して無視してはいけない。良心的に平和を愛する方々は嫌がるだろうけど、人間にとって戦争は必要不可欠な行為である。
だからこそ、戦争は真面目に取り上げねばならない。軍事学がこの世に必要とされる所以である。
ところが戦後に日本では、戦争を忌避するあまり、真剣に戦争を学ぶことを止めてしまった。とにかく戦争に反対すれば平和は叶うと誤魔化した。このおかしな傾向は、右派左派を問わず横行していたが、どちらかといえば政治実務とは縁遠い左派に多くみられた。
だがベルリンの壁が崩壊し、左派が夢見た社会主義の無残な現実が露呈してしまった。同時に冷戦が終わった(アジアでは継続中ですが)ことで戦争がなくなるのではなく、民族問題と宗教問題が噴出して小規模な戦争が世界各地で勃発した。
ようやく日本でも軍事知識の重要性が必要だとの認識が高まってきた。湾岸戦争時、NHKで解説していた江畑謙介氏のような本物の軍事ジャーナリストがその代表である。
この流れに表面的に乗ってきた似非軍事ジャーナリストが湧いて出てきたのも無理ないと思う。その一人が最近、割とよくその文章をみかけるようになった半田滋氏であろう。
下野新聞を皮切りに中日新聞、東京新聞と渡り歩いてきた左派系の記者であった。なにせあのピースボートの世界一周旅行出身であり、当然にその主張は反自民、反米である。近年は防衛省担当の記者であったようで、防衛省直々の特別講義を受講していると吹聴している。
現在は防衛ジャーナリストと名乗ることが多いようだが、問題はその書いた記事の中味である。プロの記者だけに、それなりの文章を書くが、その軍事に関する記事は稚拙というか、知識不足、思い込み過剰の駄文が多い。
本当にこの人、軍事の専門家なのかと疑うレベルである。まァそれもそのはずで、防衛省の特別講義は3週間程度の短期講習だし、実際の戦場での取材経験はほぼないに等しい。別にこの方だけではないが、いわゆるホテル記者である。
ちなみにホテル記者とは、安全なホテルに籠って、外信の翻訳記事を日本に送って戦地情報を流すことを仕事にしている記者をいう。一見、戦場にたっているような映像も、実は米軍に守られた安全な場所からの演出に過ぎず、その滑稽さを外国のジャーナリストに揶揄されている始末である。
その癖、プライドは高いらしく記名記事を堂々と書くが、その内容がひどい。その軍事知識は単なる軍事知識好きの素人である私以下である。多分、この人にとっては、防衛ジャーナリストという肩書は、自分の記事の信ぴょう性を高めるための小道具程度なのだと思う。
実際、書いている記事を読むと、相手を攻撃できる兵器があるから戦争の危機が高まるといった夢の国のお花畑で平和の舞を見ている人の駄文である。だから当然にサード配置反対であり、オスプレイ配備反対である。
読む必要のない記事を書く人だが、意地の悪い私はこの人の記事から左派ジャーナリストの本音を読み取ることにしている。文章はさほどひどくないので、分かり易いバカであるのが救いであろう。
日本は太平洋戦争でアメリカに負けた。
負けは負けであり、その事実は率直に認める必要がある。それを戦争は悪い、だから謝ればいいだろうと安直に済ますことは、むしろ却って戦争に対する真摯な反省とはならない。
それは考えることを放棄した無邪気に邪悪で無責任な行為だと私は断じる。
その一方で、アメリカ凄い、日本はそのアメリカの技術と大量生産の物量作戦に負けたと安易に捉えることも良くないと思う。屈辱的で悲哀を感じるのは自然な感情だと思うけど、冷静に、冷徹に戦争の実態を認識しておくことも大切だと思う。
その典型例がアメリカの爆撃機ボーイング29スーパーフォートレスト、通称B29である。従来の主力爆撃機のB17の二倍の大きさ、爆弾搭載量を誇るだけでなく、最新のテクノロジーを投入した第二次世界大戦後半に投入された最新鋭爆撃機である。
その特徴は高高度における長距離飛行能力である。それまでは高高度を飛ぶと低温度、低気圧にパイロットは苦しむ為、個人向けの防寒着、気圧調整スーツなどを着込んでいたが、B29では与圧室が設けられ暖房も効くようになり、長時間の任務に耐えられるよう工夫が施された。
そのB29の猛攻を受けた日本は、その爆弾攻撃により都市を焼き払われて甚大なダメージを負わされたことが有名である。高高度を飛行するB29には、日本軍は手も足も出なかった。そんな印象を持つ人は多いと思う。
しかし、実際は違った。
太平洋中、約3500機のB29が製造されて戦場に投入されている。そして1945年の終戦までい450機あまりが損失している。故障などで墜落した機体も多いが、日本軍の攻撃により墜落した機体も150~200機あまりあるとされている。
B29は単なる軍用機ではない。建造価額も高額だが、それ以上に10人を超える搭乗員を必要とする大型機であり、人的損失を重視するアメリカ軍は頭を抱えた。B29は軍用機としてではんく、軍艦並に大事に扱えと改めて指示を出しているほどだ。
なぜにこれだけの損失を出したかと云えば、我々が思う以上に当時の日本軍は、対B29向けに対応を練っていたからだ。日本列島沿岸にレーダー網を配置し、対B29を想定した戦闘機を繰り出し、また中低空まで降りてきたのを狙っての高射砲攻撃などで迎撃していた。決して無為無策ではなく、むしろ必死で本土防衛を図った。
しかし、アメリカ軍の対応はそれを上回る凶暴さであった。四川の奥地で対日義勇軍を率いて苦戦したカーチス・E・ルメイ将軍は復讐心に燃え、上層部の意向を無視して中低空での集中爆撃を繰り返した。その結果、撃墜されるB29は確かに増えたが、日本の市街地、工業地帯を壊滅させて継戦能力を喪失させた。日本軍の神風攻撃にも劣らぬ猛攻撃は確かに効果はあった。
軍首脳は現場の指揮官の暴走に困惑したが、それが日本を敗北に追いやった事実に沈黙した。ただし4000人近いB29の搭乗員を失った人的損失は戦史に明確に記録されている。このあたりを隠さず公開するところが、戦争に真面目なアメリカの良いところだと思う。
日本軍だって、B29の撃墜記録を詳細に残しているし、その多彩な防衛策も戦史に残している。でも、この貴重な記録を真摯に取り上げる歴史研究者は稀であった。戦後、70年以上たってから、アメリカ側の記録と対比して、日本側の記録との不一致を探るうちに明らかになった事実である。
敗戦の記録を辿るのは辛い作業だ。しかし、戦後生き残った日本人として後世に活かすべき貴重な記録である。当時の日本も決して無為無策ではなく、出来る限りの努力をして日本を守ろうとした歴史的事実を見て見ぬふりをするのは卑劣で愚かだと思います。
これだから私は戦後の平和ボケした日本の教育界を信用できないのです。