Photo by Ume氏
夜中は時間の経つのが早い。無為な時を1時間半も過ごしてしまった。ウイスキーを飲みながら眠気の訪れるのを待っていたのだが、このままでは朝に突入してしまいそうだ。まあ、きょうは何の予定もないからそれならそれでも構わないが、さてどうしたものか。
昨夜友人のK岡に最後の将軍・徳川慶喜の悪口を綴り、まだ書き足りないと思って続きを書こうとしたらPCから消えてしまっていた。以下は、記憶を頼りに、入笠とは全く関係のない、その友人に送った便りの断片。
将軍職に在ったのは僅か1年にも満たなかった慶喜が、30歳そこそこで静岡に安居し、まさしく無為徒食の日々を29年も過ごし、その間に趣味と二人の側室を相手にひたすら伽に励み、それぞれ平等に12人、流産なども含め24人の子を成したというから、驚くやら呆れ返るばかり(因みに父親の斉昭はもっとすごかった)。静岡では、旧幕臣の面倒などは一切見なかったようだが、この人物にあってはさもありなんだ。
幕藩体制はいずれ行き詰まる運命にあったとしても、鳥羽伏見の戦いを直前にして大阪城から夜陰に紛れて遁走するなどその終幕を将軍自らが汚し、徳川幕府存続のために非業の死を遂げた多くの佐幕派の有為の士、のみならずその家族にまで及ぶ痛ましい結末、そして多くの無辜の民百姓の犠牲などなど、それらを知っていたはずにもかかわらず後年、ぬけぬけと従一位勲一等、公爵などという爵位まで受けた。送る方もだが、それを受ける者の底抜けの能天気さ、貴族院議員となっては江戸では2000坪の敷地を構え、歴代将軍の中で最高齢となる77歳の生涯を送った。
こういう人間は、他人の幸運を徒に食いまくり、結果膨大な数の人々がそのために不運に陥り、不幸極まりない人生を余儀なくされたというわけで、世界のどこかでは今でもある話だ。実に「幸運」は限られていて、特定の個人に過度に集中させてはいけないという教訓となるだろう。
水戸藩主徳川斉昭の子である将軍慶喜を頼り雪中に倒れ、挙句福井で打ち首となった水戸天狗党の面々、はたまた会津藩に代表される佐幕派の諸藩とその藩士、家族の非業の運命と死。ある会津藩士の家族は、城内の兵糧米を案じて入城せず、祖母、母、姉妹は自刃の道を選んだ。こうした悲劇は明治の代になってもまだ続き、旧会津藩士が下北半島の荒れ地で舐めた塗炭の苦しみなども、たとへ耳にしたとしても、全く意にも介さなかっただろう。
こんな場違いなところで、眠気覚ましの代わりに最後の将軍をそしるなど畏れ多いと、異論反論もあるだろうが、あればあってもいい。
――それから何時間かが経って、壊れかけた小屋の屋根の向こうに、灰色の雲を透かして淡い冬の日が見えている。この時季になると決まってやって来るムクドリの群れも、今年は柿の実が生(な)らずに当てが外れてか、徒長した木の枝に10羽ばかりが所在無気に留まっている。
冬ごもりを始めたばかり、「荒淫」の人のことなどはさっさと忘れてしまい、この冬も、炬燵の虜囚となって暮らすことにする。長い一日であっていいし、単調な日々であっても構わない。