嫌なことはしないと決めて、冬ごもりに入ったつもりでいた。しかし、このごろ、何が自分のやりたくないことなのかもよく分からなくなってきた。
一昨日も、庭と、草の茂るに任せていたモミジ、ウツギ、グミ、ボケしか生えていない空き地の草刈りをした。やる前はあまり気乗りしなかったが、始めてみたら結構気合が入って、嫌な仕事にはならずに終わった。
たかだか100坪にも満たない荒れ地の草刈りなど遊びに等しく、ところがそれが遊びよりか面白く、身体を使った後の爽快感もあっていい仕事だった。
子供のころから、単調な肉体労働はできれば勘弁してもらいたかった方だ。それほど不器用ではないつもりでいたが、面倒なことが嫌いで、忍耐という言葉とは親しくなれず、その傾向はずっと続くと思っていた。
ところが、50歳のころになって、仕事の中に肉体労働が入ってくるようになり、それが田舎に帰ってから今に至るも続いている。牧守という仕事である。
まさかこんな晩年が来るとは想像だにしなかった。しかし、実は一番向いていたのかも知れないと思っている。それも、迷い、行き先を失い、途方に暮れたその挙句ようやく辿り着いたというよりかも、こうなるべくしてなったような気がする。漂流を続けながらも、本人には気付かない海流に乗って流れ着いた結果、とでもいうような。
よくある家庭、連れ合いがいたり、家族がいたりの暮らしはできなかったが、これは「深い哀しみの中の諦め」の一つであって、まさしく「諦め」るしかない。しかし、肉体労働に対する適正については前述のように少し考えが変わったものの、一人暮らしは、もしかすればこれも性に合っていたのかも知れない。
焚火の燃えるのを眺めながら、そんなことを考えていた。昨日は松本平へ行き、きょうは約束が2件あり出掛ける。師走だからか、人並みほどではないにしても、最近は結構やることがある。
冬期の営業について問い合わせがありました。ご希望に添えない場合もありますが、ご相談ください。
本日はこの辺で。明日は沈黙します。