伊那の中心地から高遠に至るほぼ中間、三峰川の流れが削ってできた丘陵のうち、北側の台地に「六道原(ろくどうぱら)」と呼ばれる広大な原野があった。古くは「安達篠原(あだしの)」とも呼ばれたことからして、風葬や土葬がこの辺りで行われたことが推測される。
第2次大戦下では飛行場が作られ、今は耕地整理が済んで荒れ野は広大な水田となり、飛行場跡には道路が走り、その周囲には住宅も建つようになった。
その昔、小野篁という人が冥土を往復した後、六体の地蔵尊を作り、山城国大善寺の本尊としたという言い伝え、この話や小野篁の名を知る人は少なくない。
その後、口碑は語る、後白河法皇の命を受けた平清盛が全国6カ所の土地を選定し、それらの地蔵尊を祭ることになり、信濃国ではこの地が選ばれ、その土地の名の起こりでもある六道地蔵尊が祭られるようになったと、今に伝えている。
これはあくまでも土地の伝承であり、大善寺のご本尊は重要文化財として今も同寺に安置されているし、他の5体の地蔵尊も京都周辺の街道筋に祭られているようだ。
だれか頭の良い人がこの地蔵尊にまつわる話を知って、キツネやタヌキが常住する六道原にこじつけたのであろう。
昨夜、知人宅に招かれ愉快な時を過ごし、すっかりいい気分になって家まで歩いて帰ってきた。歩数で約8000歩、その途中、この六道の森を近くに見ながら田圃道を歩いていると、南の山際にまたしても冬の月が煌々と白い光を放ちながら昇りつつあった。
(また数行が消えた)。
有難いことに、住宅地とはいい距離を取っていて殆ど視界に入ってこなかったし、薄墨を流したような闇は「安達篠原(化野)」の原風景が目の前に浮かんでくるようだった。
六道の森では子供のころ、この森の大半を占める高い松の木の枝で女性が首を吊ったという話もあったし、夜店の出る8月6日であったかその前夜だか、喧嘩で人が殺されたと言うような禍々しい噂話も聞いた。
そういう出来事も、六道地蔵の由来も、もう大方の人は忘れてしまい、それでも今も年に一度の祭りには遠近の地から亡くなった新仏(あらぼとけ)のために多くの人が訪れる。
六道地蔵の祭りは「上川手」、「下川手」二つの区の老人会が毎年交代で行っている。
本日はこの辺で。