中央の白い峰が中ア木曽駒ケ岳の前岳、これが主峰だと思っていた
きょうも何の予定もなければ、特にやらなければならないこともない。こんなふうにして、わが晩年を空費することを喜んでばかりいるわけではないが、気の重い仕事や約束事、ずっと引きずっている気苦労の種がないのは有難いと思っている。
退屈になれば、雪深い山奥の小屋番にでもなったつもりになり、あるいは風呂に入ったり、昔読んだ本を引きずり出して気を紛らわす。部屋や風呂の掃除もするし、洗濯もする。3度の食事の用意もするから、何もしないでいるわけではない。
今夜は散歩にも出るつもりだし、その前には日課としている「座る」ことも少ない予定の中に入れてある。
「座る」ことについてはこれだけ続けてきたのだから、鼻呼吸に集中して雑念を消したり、寄せ付けないようにすることが大分できるようになってきた。
だからどうだということではなく、精神的には何の変化もなければ、進歩もない。ただ、無念無想の時が上手く流れると、以前にも呟いたように、雪上にスキーで大きく、美しいターンを描けたような快感は味わえる。それだけのことで、それ以上求めもしない。
夜の森の中を歩いていて、月の光や瀬を流れる水の音に心が洗われる気がしたり、森閑とした闇の中を歩く快さと通ずると思っている。
過去から未来へは、薄い皮膜のような「今」が介在しなければ両者は繋がり、流れてはいかないわけで、少しづつ燃えながら短くなっていく1本の線香からそのあるかないかのような存在をかろうじて感じる、それで充分だと思っている。
何しろあれは「心のラジオ体操」なのだから、宗教的な教えや、心理学的な説明も全く必要と思わない趣味の領域、夜の散歩と同じようなものだ。
昨日呟いたように、市長が市報で法華道を紹介したから、今後古道を訪れる人が増えるかも知れない。その際、同じ山道を往復することを嫌う人がいるが、登りと下りとでは別の道かと思うくらい違うこともある。それにまた、今は利用できないが、整備すれば他に選べる下山路もないわけではない。
6万の伊那市民にとって入笠は故郷の山であり牧である。古(いにしえ)の事物語る良い山だ。
本日はこの辺で。