入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

    ’17年「冬ごもり」 (18)

2017年01月20日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 冬の入笠、雪の下に眠っている動植物。風以外に音の消えた白い世界・・・。
 
 かつて人も、同じようにして長い寒い季節に耐えた。火を燃やし、藁を打ち、繕い物をし、薄暗い洞穴(ほらあな)のような家の中で茶を飲み、漬物を食べ、春の来るのをじっと待った。そんな時代の長い夜、人は退屈ということを知っていただろうか。燃える火を見つめつつ、ゆっくりと過ぎていく時間を空気と同じように感じ、吸っていたのかも知れない。
 
 師走、山あいのあの小さな集落には連日、単色の虚空から雪が際限もなく降ってきていた。そしてゆっくりと畑も野も山も、白色の重圧に埋もれた後、その下で人々はじっと、心臓が鼓動するようにひっそりと暮らした。寒くて、窮屈で、不自由な冬。
 霜焼けをしたあの子は、春が来るまで目が覚めないでほしいと願いながら、眠りに落ちていった。そして朝が来て、相も変らぬ白い圧迫を呪ったが、それでも同じことを幾度となく繰り返した。
 厳寒の2月、隣の家で馬が死に、その次の日には村の外れで赤子が生まれた。雪に呑まれた小さな集落にも死があり生があり、嘆きと喜びのくごもったような叫声が厚い雪の底から聞こえてきた。
 誰かに、死んだ馬はお前が埋めろと言われた。もっと驚いたのは、生まれた赤ん坊はお前の子供だと。
 ここらで分かった、夢を見ているのだと。外ではもう、下水工事の音がしていた。もう少し続きが見たくて、うすぼんやりとした意識の向こうに帰ろうとして果たせなかった。
 夢の元になった北信濃の広津集落の写真を見直した。広大な雪をまとった森林の続く中の、それもかなり上部に、わずかな雪原に埋もれるままポツンポツンと家が点在している。山全体が凍り付いて眠っている。こんな山深い白い辺境に、一体何があって人は生存の場としたのだろう。
 
 きょうはここにも雪が降っている。きっと入笠は、また一段と雪の国の扉を厚くし、重くしたことだろう。

 
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    ’17年「冬ごもり」 (17)

2017年01月19日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


    貴婦人の丘と 鹿の足跡

 昨日、気になっていた入笠にあえて車(スズキジムニー)で、思い切って行ってみた。雪の状況については必ずしも楽観してなかったが、管理棟には管理人用のビールの在庫が不安だったし、それよりも石油ストーブをもう1台持ち込んでおきたかった。それに、取水場の様子も見ておきたかった。
 
 意外にも今年は「枯れ木」までは除雪してくれてあり、そこまでは難なく行けた。しかしそこから先、荒れた雪の上に車の通った跡はあったが古いもので、迷いつつもとりあえずオオダオ(芝平峠)まで行ってみることにした。やはり思っていた通りで、一筋縄ではいかない雪の悪路が挑戦してくるように続いた。
 オオダオに出ると、雪を被った八ヶ岳、その中でも西日を浴びた荘厳な赤岳と阿弥陀岳が木々の間から現れた。この峠で10年、春夏秋冬、季節の衣は違えども同じ山を眺めてきた。普段わざわざ停まったりはしないが、ようやくそこから舗装された道に合流できると一安堵して、新緑の春を、鬱陶しいほどの緑の夏を、紅葉にに染まる秋を、そして雪の罠に怯える冬を通過してきた。
 雪はさらに深まり、急な曲がりでは先行者が足搔き乱した轍に手を焼きながら、ともかくも進んだ。後にした山奥氏への状況報告では、「高度な運転テクニックを使ったから」と言って、暗に氏には無理だと伝え、腐らせた。
 北門を過ぎ「貴婦人の丘」で写真を撮ろうとしたら、鹿の群れが雪煙を上げて逃げていった。鹿もこの雪では、草を掘り出すのが大変だろう。気を抜かないようにして弁天下の三叉路まで来て、そのまま管理棟まで行けるかと思ったら、南テキサスゲート少し手前で轍は消え、なおも数十メートルを進み、そこで諦めた。管理棟までは、今度は潜る雪の中を徒歩で石油ストーブとビールのために、帰路の不安を抱えながら二往復を余儀なくされた。

 これで、今冬は車で行くことを最後と決めた。肉体的にはきつくとも、安気な法華道を歩いて登る。
 カントさん、TBIさん、そんなわけで、入笠牧場での機材を使っての天体観測はしばらくできなくなりました。

   降りものは 雪ともつかぬ 寒さかな  ― 井月 -
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    ’17年「冬ごもり」 (16)

2017年01月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 井月について、暇に飽かしてもう少し勝手なことを書いておきたい。と言っても、大したことなど書けるわけもない。世に多くの井月関連本があるから興味関心のある方々はそちらで、こっちはあくまで一昨日や昨日のような埋草、戯れ言の類とお断りしておきたい。
 
 実は昨日の訂正ではもうひとつ、本名と生年月日を一度消し、再び挿入した。ある所で、井月は「井上」という姓を使ったことはない、と断定している文章を目にしたこと、また出生と没年についても1年のズレのある本を目にしたからだった。これらのことを追求するだけの能力と熱意があればよいが、かなわない。やむなく慌てて消したり、また取り上げるという無様を演じた。





 「井月の俳境」(鞜青社刊)の著者宮脇昌三は、同書において井月が井上の姓を二度使っていることをハッキリと書いている。一つは宮田村の山浦山浦への書簡で(ここでも水戸の天狗党のことが出てくる)、もう一つは養子に入った梅関塩原折治の分家先から、本家の娘の婿養子を求めた文章(「口上書」)にあるとしている。その点については「信濃の俳人」とも合致する。ただし昭和19年刊の「信濃の俳人」では没年を「(明治)十九年二月十五日(一説には二十年三月十日舊歴二月十八日)」として、他の最近の井月関連の本と違いを見せている。
 宮脇は「井月、その本姓井上、本名克三と言うも、今日残る書簡一、二通において、暗夜ちらりと一星の洩れたるにひとしい。」と、美文でそのことを書き、また没年については、河南(かなみ)の龍勝寺の過去帳に明治20年3月10日没、66歳と記載があるという。生年はその逆算によるとある。
 本当に「井上」が井月の姓であるかまでは井月の正体が依然不明なため明かしようもないが、本人がそう書いていることは、これらから間違いないと断定できよう。

 井月関連では最も有名で、井月を世に知らしめた名著「井月全集」にも目を通したかったが、今ごろは雪に埋もれた入笠の極寒の牧場管理棟で、読み手が来る日を待ってくれているだろう。きょうの写真は、資料にした幾つか。

 村井さん、予約受けました。O沢さんはネコのようなことを言ってないで、浦でもどこへでも喜んで案内します。ただし、「行き倒れ」については、見解を異にします。マナスル山荘本館のオーナー山口さん、ありがとう。盛況なによりです。そのうち、熱いココア(ビールも)を頂きに伺います。


 
 
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    ’17年「冬ごもり」 (15)

2017年01月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 火山峠を伊那市側から駒ケ根市へと1キロも下らないうちに、左手に「芭蕉の松」と呼ばれる赤松の古木がある。芭蕉が訪れたわけでも、この地を意識して吟じた句でもないが、芭蕉の句碑がこの松の木の根元に置かれたことからこう呼ばれるようになったと案内板にある。井月の句碑もその奥に見える。そして振り返ると、雪の田が下方に続いている。恐らく、虫の息の井月が発見されたのはもう少し下だろう。

 
  暗機夜毛(くらきよも) 花能(の)明かりや 西乃旅
 

 それからがすごい話になる。その身は、面倒を嫌った村人により火山峠を越え、富県(とみがた)の南福地に放置されたらしい。井月のことを、この人たちもきっと知っていたのではないだろうか。幸い、親交のあった竹松竹風の知るところとなり、彼の手配で人を頼み、井月は隣村の河南村に住む六波羅霞松宅に担ぎ込まれた。霞松は先ごろ井月が養子縁組したことを知っていたため、そこでここでもまた人を頼み、彼らの手で三峰川を渡り、美すゞ末広の太田窪にある入籍先の塩原梅関宅にようやく運び込まれた。やっとのことで瀕死の井月は、ここで最後の年を越した。
 この距離、およそ10キロほどか。当時のこと、戸板に乗せて何人かの人の手で運んだらしい。実際の地理を知らないと分かるまいが、ひと口に10キロ、この距離は想像する以上に長くて遠い。峠を越え山道を通り、川まで渡り・・・。
 試みに、これを書くのと並行して井月の墓から火山峠を越え、前述の芭蕉の松までを最も合理的と思われる経路を選び、実際に運転してオドメーターで計ってみた。13キロあった。

 

 久しぶりに井月の墓を訪れたら驚いたことに、土の中に埋もれかけていた墓は、コンクリートの基礎の上に置かれていた。井月を慕う人たちのしたことだろうが酒瓶や、ビール缶が乱雑に供えられていた。気持ちが分からないわけではないが、酒やビールを注ぐなり飲むなりしたら、容器は持ち帰るべきだと思った。かの山頭火も井月の墓前に額ずき「お墓したしくお酒をそそぐ」などという句を残しているが、実際には酒を持っていって、そうしたわけではない。
 
 市内を行けばあちこちに井月の句碑が見付かる。ほかいびと(=乞食)とまで言われたいち俳人の生涯を思えば、今ごろになって異常破格の扱いという気がしないでもない。
 最後に昨日、「芥川龍之介をして『入神に至る』云々」とつい書いてしまったが、正しくは「入神と称するを妨げない」。訂正します。
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    ’17年「冬ごもり」 (14)

2017年01月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 これは、井上井月(せいげつ、本名・井上克三、1822-1887)の書とされている。後に芥川龍之介をして「入神と称するを妨げない」とまで言わしめた人の書である。
 井月にすれば酒のためとはいえ、こういう他人の句(本人作も一句ある)の寄せ書きなどは体力も要るし、あまりしたくなかっただろう。だからこの種の物はあまり残ってはいないらしい。よく読めないから吟味するだけの域に至っていない。

 俳句に関心がある人なら恐らく井月の名くらいは知っていると思う。映画にもなったし、つげ義春はそれよりも余程早く、かなり正確な井月像を漫画で描いている。出自は長岡ということだが、はっきりとしない。諸国を行脚した際に綴った「越後獅子」や、彼を知る古老からの話によるようだが、武田耕雲斎が率いる水戸の天狗党の中に誰か知る者がいたとの話も聞く。ともかくも、伊那谷に30年ほどの長きを漂白できたのだから、寒い土地の生れではあろうが、長岡ではない可能性まで考えてみることもある。 
 幕末期を江戸に学び、これだけの書をものし、数々の佳句を残し、漢詩においても才気を見せたという。長岡藩は大藩であるが、それでもこれだけの人の生誕地での消息が、いまだに不明というのは不思議過ぎる。「あれだけにすぐれた風格と天分と学識を持ちながら末路蕭条として枯野の旅路に斃れた」(「信濃の俳人」、小林郊人著、昭和19年刊)とし、「怒ったところや婦人に戯れたと云うことを聞かない」とも書く。
 伊那谷に暮らすようになっての半生、俳句と書を方便(たつき)とした、などと言えるだろうか。むしろ無職渡世の風狂を生き、最後は糞尿にまみれた行き倒れの姿が明治19年師走某日、伊那村(駒ケ根市)の火山峠の麓、冬枯れの田の中で発見された。虫の息も同然だったという。(つづく)
  
 きょうも一日寒い。「伊那谷に30年ほどの長きを漂白できたのだから」と書いたのは、着の身着のままの身で、この土地の冬の寒さに耐えたことを言ったわけだが。これから井月の墓を訪い、火山峠まで足を延ばす。

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