<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

こんなところに仏陀が実っている、まんまるくかわいらしく。

2021年08月07日 17時33分43秒 | Weblog

わははは。あははあ。畑に出たら、西瓜が実っていた。

 

こんなところに仏陀が実っている。そこからぼくを見上げておられる。

 

仏陀というのはいろんな顔をされるなあ。変幻自在だなあ。ここでは難しい顔をしておられない。

 

しかつめらしい目もしておられない。まんまるくしておられる。かわいらしくしておられる。

 

短い時間だったが、ご対面の時間をくださった。ぼくは「がははは」「あははは」になった。

 

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今夜はカレーだ。うしししっし。

2021年08月07日 17時29分26秒 | Weblog

今日は昼間、数個のジャガイモの皮剥きをした。

 

今夜はカレーだ。うしししししっし。しーっ。

 

大好きなカレーだ。こどもみたいだな。

 

こどもになれるよろこびを、カレーがくれる。こんなに年を取った老爺なのに。

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己は草藪だ。しょっちゅう、ざわめいている。

2021年08月07日 17時23分32秒 | Weblog

おれはざわめきだ。しょっちゅう、ざわめいている。ざわざわざわざわしている。

 

おれは草藪だ。ひっきりなしに揺れて動いて、不安の音を立てる。そこへ虫が来て、鳴く。

 

そこでやっとこさ、虫の音に耳を立てる。りりりりりりと虫が鳴いて、おれの騒ぎを収めようとしている。

 

すまない。

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おお、夕立だ。夏の夕立だ。

2021年08月07日 17時19分05秒 | Weblog

おお、夕立だ。夏の夕立だ。ざぶざぶざぶと雨の音がしている。夏の夕立は一瞬で過ぎ去った。

 

あとに、雨滴が垂れている。洗濯竿にふくらんでいる。それが一つ一つ、空の光を宿している。

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随分と回り道をしてきたもんだ。

2021年08月07日 17時00分20秒 | Weblog

「救われてみれば、救われることも要らなかった」の句を聞いたことがある。誰の句だったかは忘れている。

「初めから救われていた」という述懐である。

「拗ねたり、ごねたり、ねだったり、頼んだり、恐がったりしなくてよかった」というのである。「ずいぶんと回り道をしてきたもんだ」という述懐である。

「救われていた」という自覚が生まれたら、いまさらに「救って下さい」を仏に強要することも無用だった。そういうのである。

「自覚」は「悟り」である。自覚は歓喜である。自覚は安心である。自覚は解放である。自覚は解脱である。

そうさせまいとするものが迷いである。不安であり、恐怖心であり、猜疑のこころである。

生まれてから死ぬまで安心をしていてよかったのである。すべてはお慈悲の中にいたのである。すべては仏の知恵のなかにいたのである。恐怖の中にいなくてもよかったのである。おまかせをしていてよかったのである。

「救われてみると」、そこに青い空が広がっている。「これでよかったんだ」になる。救われてみる前から、青い空は広がっていたのだが、空が広がっているという事実が、己の迷妄を解き放ってくれたのである。「ああ、おれはずっと救われていたんだ」という自覚が起こると、後は「野となれ山となれ」で済むのかも知れない。

わたしはまだここまで辿り着けていない。先人の句を道標(みちしるべ)にして進んで行きたい。

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がやくざいひせっしゅちゅう。仏さまのお相手はこのわたしであった。

2021年08月07日 16時20分37秒 | Weblog

我亦在彼摂取中     浄土真宗経典より

がやくざいひせっしゅちゅう

我も亦、彼(か)の摂取の中に在り

わたしもまた阿弥陀仏の摂取の中にありました。

「摂取」とは「救い取って捨てない」ということである。

「ほかの誰でもない、このわたしがいまここで阿弥陀仏の救済のまっただ中におりました」という受け止めが生まれて来る。そういう「安心のわたし」が誕生する。

阿弥陀仏は遠い人、縁のない仏とばかり思っていたのに、そうではなかった。「阿弥陀仏の救済の相手はこのわたしだった」という発見をする。そしてそこで大粒の涙が零れて来る。

☆ 

「え、そんなことはない」と反論されるだろう。阿弥陀仏は仏像ではないのである。人格化しないと信仰できないので方便として形を持たせてあるが、形であれば救済の動きは取れまい。

仏は、変幻自在な「法」なのである。ハタラキなのである。わたしの心臓を打たせているハタラキである。わたしに肺呼吸をさせているパワーそのものである。わたしを明るい光の中に立たせているところのエネルギーである。

仏とは光である。水である。空気である。空である。山である。海である。父である、母である。妻であり子である。師であり、友である。

わたしに寄り添っていてくれるもの、わたしを支えているもの、生かしているもの、導いているもの、わたしをよろこばせているもの、そのすべてである。

そこまで広げてみると納得されて来る。ああ、そうだったそうだった、と思うことができる。わたしもその対象であったということが頷かれてくる。

気づきがあると、そこに仏陀が顕現して来る。気づかせられてみるとそこに信仰が聳え立って来る。

しかし、それを気づかせようとしないものがある。わたしの中にある無明、煩悩、懐疑の心、拒否の心、否定の心である。そういうこころが起こるときに、この経典の一偈一句が立ち現れて来て、わたしを解放に向かわせてくれる。

我亦在彼摂取中。がやくざいひせっしゅちゅう。「彼」とは、わたしに向かう「あれもこれも」のハタラキ、その「あらゆる力」のことを指しているのかもしれない。

「お前を救うぞ救うぞ救うぞ」の掛け声の、そのまっただ中を、わたしが生きていたのだった。

 

 

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