やだなあ、出るべきものが出ないよー。下腹がきりきりするのに、出ない。薬を飲まなくちゃいけないかなあ。
運動をしていないからかなあ。じっとして室内に籠もっていると、こうなるのかなあ。やだなあ。
何がどうあっても、タイヘン。逆に、これまではすべての好条件を整えてもらっていたってことだよなあ。そうなるよなあ。
基本的に、人間、快食快便快眠、これだよなあ。具合が悪くなって初めてその良さが分かる。
やだなあ、出るべきものが出ないよー。下腹がきりきりするのに、出ない。薬を飲まなくちゃいけないかなあ。
運動をしていないからかなあ。じっとして室内に籠もっていると、こうなるのかなあ。やだなあ。
何がどうあっても、タイヘン。逆に、これまではすべての好条件を整えてもらっていたってことだよなあ。そうなるよなあ。
基本的に、人間、快食快便快眠、これだよなあ。具合が悪くなって初めてその良さが分かる。
庭のコスモスがモミクチャにされてしまった、台風9号に。倒されてめっちゃクチャ。これじゃ可哀想。四方八方に元気よく茎や枝葉を伸ばしていたのに。花弁も萎れている。立ち直れるかなあ? やっぱりこれだけ凄く吹き荒れたんだ。たいしたことはないと思っていたのに。支柱を立てて起こしてやるしかないが、怠けてしていない。なにしろ外は暑い。ムシムシする。
8月中にいずれにしろ草取りをしてしまわねばならない。後半にはもう冬野菜の準備に入る。白菜の種蒔きは、早めにしておかねば、うまくふっくらと巻かない。畑も庭も雑草が深い藪を造っている。忙しくなるぞ。農作業に掛かる元気を取り戻しておかなくちゃ。
法華経の白蓮華咲く池の風 山鳩暮風
☆
筆者の住んでいるところにはクリークが多くある。クリークは人工の濠。灌漑用の溜め池。
夏を迎えている。至る所に蓮の花が咲いている。風が花を静かに揺らしている。
☆
法華経は「妙法蓮華経」の省略形だ。サンスクリット語では「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」。日本語訳だと「妙なる法の白蓮華の経典」。「プンダリーカ」は「無垢の白い蓮の華」。仏教の教えを象徴している。何故、蓮華が仏教を象徴しているか。汚れ(=淤泥=汚濁=煩悩)に染まらないでいるからである。蓮は、淤泥に根を下ろしながら淤泥に染まらないで、馥郁とした清浄の華を地上に咲かせることができる。
淤泥に根を下ろすことができるといところも仏教のテーゼである。
☆
法華経はお釈迦様が説かれた説法集、法の教えの集約である。だから、法華経からはお釈迦様の声が聞こえてくるのだ。池に咲いたプンダリーカに風が吹いて来る。風が声を振幅させて来る。
☆
法華経は遠いところにあるのではない。この地上そのものが法華経の舞台である。クリークに蓮が咲いていると、法華経が咲いているように思えて、嬉しくなったのだ。それを句にしてみた。
☆
でも、この作品は、とてもとても、名句とは言えまい。僕は法華経が大好きだから、地上に咲く蓮そのものが法華経にも見えてしまうのだ。
法華経の白蓮華咲く池の風 山鳩暮風
☆
筆者の住んでいるところにはクリークが多くある。クリークは人工の濠。灌漑用の溜め池。
夏を迎えている。至る所に蓮の花が咲いている。風が花を静かに揺らしている。
☆
法華経は「妙法蓮華経」の省略形だ。サンスクリット語では「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」。日本語訳だと「妙なる法の白蓮華の経典」。「プンダリーカ」は「無垢の白い蓮の華」。仏教の教えを象徴している。何故、蓮華が仏教を象徴しているか。汚れ(=淤泥=汚濁=煩悩)に染まらないでいるからである。蓮は、淤泥に根を下ろしながら淤泥に染まらないで、馥郁とした清浄の華を地上に咲かせることができる。
淤泥に根を下ろすことができるといところも仏教のテーゼである。
☆
法華経はお釈迦様が説かれた説法集、法の教えの集約である。だから、法華経からはお釈迦様の声が聞こえてくるのだ。池に咲いたプンダリーカに風が吹いて来る。風が声を振幅させて来る。
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法華経は遠いところにあるのではない。この地上そのものが法華経の舞台である。クリークに蓮が咲いていると、法華経が咲いているように思えて、嬉しくなったのだ。それを句にしてみた。
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でも、この作品は、とてもとても、名句とは言えまい。僕は法華経が大好きだから、地上に咲く蓮そのものが法華経にも見えてしまうのだ。
毒茸の茸雲、原爆のキノコ雲。大量無差別殺人兵器。戦勝国は広島と長崎にそれを落とした。そしてそれを肯定した。戦争を終結させるにはこれしかなかった、ということにした。あれで日本人みんなが死ぬのを食い止め得たという論法に出た。確かにその後数日して日本は無条件降伏をした。終戦となった。終戦になって多くの命が助かったことも事実だ。徹底抗戦をし続けていたらどうなっていただろう。
☆
原爆の記念日76年目
僕の川柳である。
☆
東京裁判で裁かれたのは敗戦国日本だけであった。両者が戦ったその戦争そのものは裁かれていない。残っているのは? 呪うべき原爆の記念日だ。あれから76年目を迎えている。裁かれなかった原爆、大量無差別殺人兵器は尚この我々の地球上に堂々と居直って、睨みをきかせている。
純白の泰山朴の花唇(かしん)からグリム童話を聞いている虫
山鳩暮風
☆
落選の作品だけど、このまま死なせてしまいたくなくて、此処に案内して来た。この舞台に立たせて、踊らせてみる。
☆
この作品は童話風にしてみた。グリム童話を聞いているのは虫がいいか蝶がいいか迷った。泰山朴の花は純白で大輪である。花が唇になっているので「花唇」としてみた。静かにじっとしていることができるのは虫じゃないか、と思って、虫と対峙させてみた。何の虫であってもよさそう。
☆
虫が来るのは花粉の蜜を求めてのはずだが、この虫は話を聞くのが好きな虫である。で、ひたすらそこで童話を聞いている。
☆
虫を呼び寄せるのは香りが最適かも知れないが、この泰山朴は香りの代わりに童話の読み聞かせを選択したらしい。森の奥にはそういう変わり者もいていいかもしれない。
赤い唇をしているのは人間。白い唇をしているのは山中の泰山朴。
一日中なまめく胡瓜なまめけど雄花雌花の行き来のあらず
山鳩暮風
☆
ふっと憐れを催したのである。
雄花が雌花のところに忍んでいくこともない。雌花が雄花を誘っている風でもない。
互いに互いの距離を取っているだけで、行き来をしていないのである。
胡瓜は禁欲主義者だろうか。雄花雌花は虫を待つだけで終わる。直接は触れないで終わる。
それでなお一日中、ああやって生き生きとして、なまめいていることができる。不思議な生き物である。
僕だったらそうはしない。すぐにでも出掛けて行って交歓に進んで行くであろう。
☆
かっての仏道修行者のようだ。彼らも男女間の交歓の営みをしなかった。ただただ自己の悟りへ進む自利の行、他者を悟りに導いて行く利他の行の、その二つの実践に励んで、悔いることがなかった。
一日中なまめく胡瓜なまめけど雄花雌花の行き来のあらず
山鳩暮風
☆
ふっと憐れを催したのである。
雄花が雌花のところに忍んでいくこともない。雌花が雄花を誘っている風でもない。
互いに互いの距離を取っているだけで、行き来をしていないのである。
胡瓜は禁欲主義者だろうか。雄花雌花は虫を待つだけで終わる。直接は触れないで終わる。
それでなお一日中、ああやって生き生きとして、なまめいていることができる。不思議な生き物である。
僕だったらそうはしない。すぐにでも出掛けて行って交歓に進んで行くであろう。
☆
かっての仏道修行者のようだ。彼らも男女間の交歓の営みをしなかった。ただただ自己の悟りへ進む自利の行、他者を悟りに導いて行く利他の行の、その二つの実践に励んで、悔いることがなかった。
日暮れにも死なむとするに煩悩のダリアの赤し手に触れてみる
山鳩暮風
☆
人間には手がある。手に指がある。指に皮膚がある。触れるための皮膚がある。皮膚は触覚である。触覚が用をなさんとして、あれにもこれにも触れようとする。女の人にも触れようとする。ダリアが風に揺れていると誘われたように勘違いしてしまう。触ってよと言われたように勘違いをする。手を延ばして触ろうとする。老いて病んで、今日の日暮れにも死ぬかも知れないというのにである。
煩悩は皮膚に宿っている。こいつは老いても衰えをしらない。
しかし、女の人になんかついぞ触れたことがないなあ。何十年も何十年も触れたことがないなあ。無用にされた触角の手の指が、さぞかし悲しんでいるであろう。
そんなことを斟酌できるダリアではない。赤い花を着けたダリアは、夏の風に美しく揺れているだけである。煩悩に揺れ動かされているのは、さもしい顔のこの老人だけである。
夏の盛り。食べ残しのカステーラに、いつのまにか蟻が這っている。長い長い列をなしている。砂漠を行くキャラバンのようだ。
☆
カステラの砂糖砂漠をキャラバンが 山鳩暮風
☆
川柳にも俳句にもなっているかもしれない。どちらにもなっていないかもしれない。もちろん落選してた。
僕はたちまちプアーになった。いつものことなんだけど、それでも。僕は、見る間に、だらりと背骨の曲がったこころの貧乏人になった。