雨が降るなあ。大川は水嵩が増えているだろうなあ。濁流になっているだろう。濁流のさなかにいる小魚たちは、目が見えなくなっているだろう。めくらめっぽうに、ただただ濁流に押し流されているだけだろう。恐いだろうなあ。もうすぐ海近くだろうかなあ。また戻って来られるだろうか。
さぶろう、お前、死ぬぞ。死んでもいいか。
さぶろうがさぶろうに問う。
そわそわそわが治らない。問うているばかりで、答えにならない。で、いつもそわそわそわそわして暮らしているばかり。落ち着きがない。
「死んでもいいか」の問いには「いやだ」しかない。死ぬのは嫌だ。それでも死ぬ。どうにもならない。
じゃ、嫌だ嫌だで死ぬしかない。
死にたくない者をどうして死なせるんだよう、と目を剥く。
受け入れができない。受け入れができないままでぶざまに死ぬことになる。
で、「一巻の終わり」になる。終わりにさせてもらう。
☆
生まれたように死なされるのだ。わたしがわたしを生むことはできないように、わたしがわたしを死なせることもできない。
始めも終わりもただただ大いなる力によって、大いなるダンマによって、良い方へ良い方へ「せしめられて」行く。
☆
良い方へ良い方へ進んで行く。次へ次へ進んで行かされる。次へ次へ果てしなく進んで行かされるわたしという宇宙生命体。
速入寂静無為楽 必以信心為能入 浄土真宗経典より
☆
そくにゅうじゃくじょうむいらく ひっちしんじんいのうにゅう
☆
速やかに寂静無為の楽(安楽の浄土)に入らんには、必ず信心を以て能入(のうにゅう=うまく入っていける条件)とす。
☆
迷わずにすぐさま寂静無為の安楽浄土に入って行こうとするには、阿弥陀仏の本願を信じればそこですぐさまそれができる条件が満ちて来ます。
☆
「おまえを助けるぞ」という阿弥陀仏の約束(=本願)を信じるたら、そこに寂静無為の浄土が広がっている。
無為は為(人間の一切のはたらき)をすとんと超えて出たところにある仏の寂静涅槃界のことを指している。
☆
寂静無為の楽の「楽」を親鸞聖人は「みやこ」と読ませてあるようです。「みやこ」は阿弥陀仏の楽土にしてわれらがふるさと。余所者(よそもの)らしくしなくてもいいところ、なんだろう。
☆
今日はお盆だから、仏壇の前に座ってこの経典を読経しました。読むばかりで分かっちゃいないのです。うすっぺらな理解ですからすぐにメッキが剥げてしまいます。信心が難しい。理屈で理解しようとしているから、周りを回っているだけになっています、この老爺の場合は。経典が教えているように、すっと入り込んでいけばいいのです、よね。
☆
でも、落ち着きました。しばらくの間は。
外は雨が止んで風が吹いています。日が暮れていきます。
「ただいま」。声を掛けて入れば、此処は阿弥陀仏の浄土。わたしのふるさと。「おかえり」と迎え入れられて安堵する。
速入寂静無為楽 必以信心為能入 浄土真宗経典より
☆
そくにゅうじゃくじょうむいらく ひっちしんじんいのうにゅう
☆
速やかに寂静無為の楽(安楽の浄土)に入らんには、必ず信心を以て能入(のうにゅう=うまく入っていける条件)とす。
☆
迷わずにすぐさま寂静無為の安楽浄土に入って行こうとするには、阿弥陀仏の本願を信じればそこですぐさまそれができる条件が満ちて来ます。
☆
「おまえを助けるぞ」という阿弥陀仏の約束(=本願)を信じるたら、そこに寂静無為の浄土が広がっている。
無為は為(人間の一切のはたらき)をすとんと超えて出たところにある仏の寂静涅槃界のことを指している。
☆
寂静無為の楽の「楽」を親鸞聖人は「みやこ」と読ませてあるようです。「みやこ」は阿弥陀仏の楽土にしてわれらがふるさと。余所者(よそもの)らしくしなくてもいいところ、なんだろう。
☆
今日はお盆だから、仏壇の前に座ってこの経典を読経しました。読むばかりで分かっちゃいないのです。うすっぺらな理解ですからすぐにメッキが剥げてしまいます。信心が難しい。理屈で理解しようとしているから、周りを回っているだけになっています、この老爺の場合は。経典が教えているように、すっと入り込んでいけばいいのです、よね。
☆
でも、落ち着きました。しばらくの間は。
外は雨が止んで風が吹いています。日が暮れていきます。
「ただいま」。声を掛けて入れば、此処は阿弥陀仏の浄土。わたしのふるさと。「おかえり」と迎え入れられて安堵する。
雨の中を外に出て見ました。傘を差していても、濡れてしまいました。
道路も川になっていました。履いていた運動靴がズブ濡れになりました。
我が家の畑で収穫した大玉黒西瓜を包丁で割ってみました。合格品でした。真っ赤に熟れていました。
その半分をお隣さんに分けに行きました。「仏さまに供えて下さい」と声を掛けました。喜んで頂きました。
このお隣さんの家のお爺さんお婆さんには、小さい頃に可愛がって頂きました。
もう精霊様になっておられますが、懐かしく思い出されて来ました。今日からお盆。お帰りになっておられることでしょう。
お盆は盂蘭盆会(うらぼんえ)とも言いますが、歓喜会(かんぎえ)とも呼ばれていました。
地獄にいるお母さんを救った木蓮尊者の歓喜に因んでいます。我が息子に助けてもらったお母さんの歓喜もいかばかりだったでしょう。仏陀の歓喜も偲ばれます。
地獄から救われたお母さんは、その後、では何処に行かれたのでしょう。地獄の対極にある極楽浄土だったでしょうか。極楽浄土は阿弥陀仏が建立された仏国土です。
極楽に匹敵する楽土は無数にあります。宇宙の星々の全部がそうです。みな歓喜によってきらきらと輝いています。何処に赴いて行ってもいいのです。
選択権はそれぞれにあります。楽土浄土はそれぞれの仏陀によって少しずつ違っています。それだけ「楽しみ」「歓喜」の数も多いのです。
死後は生前です。われわれはみな思い思いに星々を尋ねて行けます。星を尋ねて仏陀に遭います。その仏陀を慕って来た多くの菩薩たちにも逢うことができます。
楽しみは尽きないのです。
今日からお盆です。お盆が来ると盆踊りを楽しみにしていました。わたしは踊れませんから、踊りの雰囲気を楽しむだけですけど。夕方近くになるとそわそわして落ち着きませんでした。屋台も並んでいて、金魚掬いが名物でした。
☆
この地域でも盆踊り大会というのが行われていましたが、いまはありません。コロナ禍の渦中では考えられませんね。
いまは衰退してしまっています。徳島鳴門の阿波踊りはどうなんでしょう。東北のねぶた祭などはどうなんでしょう。
☆
夕方になると浴衣を着た人たち、踊り上手たちが、広場に集まって、円陣を組み、大きな音量で流れる賑やかな歌を聞きながら、団扇を片手に踊っていました。楽しそうに楽しそうに踊っておられました。
中央には舞台が組まれ、赤白の幕が張られていました。その舞台にお手本を見せて踊る人たちがいました。夜が更けるまで続けられていたようです。
池の傍では親子が打ち興じて、花火を上げて遊んでいる光景も見かけました。
そうしたことを懐かしく思い出しました。花笠音頭や東京音頭の歌が聞こえて来るようです。
家内に団子を作ってもらった。小さな団子である。材料は餅米。蒸して作る。小さなお皿に載せ、黄な粉をまぶして食べた。おいしかった。
その前に、家内がお皿に盛って、お仏壇のご先祖様方にお供えをして、食べて頂いた。
「ご先祖様、よろこんでおられるだろうなあ」「おいしいおいしいと言って食べられただろうなあ」「ありがとうありがとう」と言って家内の労をねぎらった。
☆
ご先祖様に口はありやなしや? ご先祖様の口中に消化液・消化酵素はありやなしや? ご先祖様に胃袋はありやなしや? はたしてはたして。
そこにいますが如くにしておもてなしをする。そうすれば、そこにこころが生まれる。互いにこころを通じ合わせる。そういう思い遣りを、古来からわれわれは、なんだ絵空事じゃないかなどと言って疎んじないで、長く長く受け継いで、尊重してきたのだろう。
よく降っているなあ。市からの警戒避難情報が何度も流れている。
我が住んでいるところは山里。比較的高いところにあるから、水が押し寄せて氾濫する可能性はほぼゼロに近い。かといって、山や丘に近いわけでもない。だから土砂崩れ・崖崩れの心配もない。
☆
昭和28年には、しかし、山麓にある溜め池が2カ所で決壊した。田畑が被害を受けた。この年には河川の堤防が決壊した。木製の橋が流失した。まだ小学生低学年の頃だ。
昼までで下校することになった。川の所まで来ると橋が途中半分流されていた。ずっとずっと上流の石作りの頑丈な橋を渡って、迂回して帰ることができた。暗い、細い、恐い山の中の小径を抜けて帰った。一人で。上級生もいなかった。
☆
この洪水氾濫の後に、川幅が拡張された。それ以来堤防決壊はない。
おやおやまた雨が降り出しました。雨の音が高くなりました。
これから朝ご飯です。今朝はお麩の味噌汁です。僕は麩が大好きです。池の鯉のようです。
☆
工事をなさって下さる方のお八つにパンが買って来てあります。ですが、当分は雨が降り続きそうなので、工事はその間中止になっています。
で、そのパンが悪くなってしまいそうで、そうならない内に、われらで食べてしまうことにしました。朝は、だから、パン食です。