<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

今日の僕の即興詩 「黙って黙って黙って働いている」

2021年08月27日 15時29分51秒 | Weblog
僕の今日の即興詩 「黙って黙って働いている」


心臓が働いている
肝臓が働いている
膵臓が働いている
脾臓が働いている
腎臓が働いている
肺の臓が働いている
これで全身全霊が明るくなっている

おれはどうしているかというと
おれは悪行の限りを尽くしている
まったく善行をしていない

ご主人様が悪行をするために
わたしたちは働いているのではない
などと
しかし
心臓は言わない
肝臓は言わない
膵臓は言わない
脾臓は言わない
腎臓は言わない
肺の臓も言わない

黙って黙って働いている

ひたすらひたすら
なにがなんでも
ご主人様を元気にしようとしている


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パラリンピック競技を観戦する。

2021年08月27日 15時14分02秒 | Weblog
パラリンピックを観戦する。すぐに泣きたくなる。

障害を持ったら、たいがいは身を悲しんで、身を隠してしまうもののようだが、そこが打破されている。打ち破られている。

過去には、他者を羨んで我が身の不幸を嘆いて来られたはずである。

そこを突き抜けて自分の弱点をおおっぴらに見せている。不幸に止まっておられない。

障害を克服している。スポーツにまで高めている。堂々としている。表舞台に出て来て、精一杯に活動活躍している。

お育てになったお父さんお母さんがいちばんよろこんでいるだろうなあと思う。それを思うと涙になる。

パラリンピックのスポーツはお医者さんが始められたらしい。スポーツをすることで治療が進むことがあるらしい。

障害といっても体の障害、こころの障害がある。体の障害もいろいろある。目の障害、耳の障害、脳の障害、手の障害、足の障害、発達障害もある。先天的障害、後天的障害もある。

克服をした人は、障害をマイナスとしておられないのかもしれない。出場者は明るい。暗くない。朗らかだ。輝いている。


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いかにも楽しそうである。

2021年08月27日 14時57分54秒 | Weblog
土蜂がせっせせっせと行き交いしている。それを観察している。(それほど暇を持て余している、ことになりそう)

竹籬がある。竹を縦横に組んで糸瓜の棚を作っている。その横向き(水平)の竹に切り口がある。そこに穴が開いている。

土蜂はその穴の中を出たり入ったりしている。何かを運んで来ているようだ。巣作りをしているのかもしれない。

もう夏が終わろうとしているというのに。いまから巣作りは遅くないだろうか。

オスとメスだろうか。何度も何度も何かを運んで来ている。竹の丸い穴から出たり入ったりしている。その熱心さが、いかにも楽しそうである。

楽しそうに見える。彼らがそう言っているわけではないが、勝手な想像をたくましくして。

小さな蜂が手に入れている楽しみというもの。それを人間のお爺さんが盗み見て、拍手を送っている。これはこれで小さな夏の終わりの風景になっている。
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それって凄い価値があることなのに。

2021年08月27日 14時48分04秒 | Weblog
いつもいつも、もっともっともっとを希求している。

もっとが手に入らないと不満になる。つまらないつまらないを言っておかねばならなくなる。

「もっと」の10段階のところで立ち止まって、9段階のところを振り向いたら、「よくぞここまで高く登ってこられたものよ」満足げにとにこりとできるのに、そうはしないで次の11段階のところまで行き着けなかったという後悔をして塞いでいる。

哀れ哀れ。

「ああ、ここまで登ってこられた」「よかったよかった」のはずなのに。いつも不満を先に立てて暮らしている。


「昨日までをおれは元気で暮らせた」ということに感謝をすればいいのに、それをしない。それって凄い価値があることなのに。
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照りつけたり、陰ったりしています。

2021年08月27日 14時34分57秒 | Weblog
もうすぐ午後3時。風が少しあるらしくて、糸瓜の葉っぱがわずかに揺れています。

朝から、カンカン照りに照りつけたり、陰ったりしています。気温は変わらず、32℃。

で、出渋っています。音楽を聴きながら、冷房の中でごろごろして怠け者をしています。

家の中は誰もいません。役立たずのお爺さんが一人で留守番しています。いつもこうですけど。

窓の向こうに白い雲が浮かんでいます。じっとして浮かんでいます。大きい雲やら小さい雲やらがいます。
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「おれがここにいるんだぞ」と胸を張れるときはいいなあ。

2021年08月27日 11時40分14秒 | Weblog
「おれがここにいるんだぞ」って面構えをしてずんずん鎌首をもたげている。蛇じゃない。糸瓜の蔓だ。蔓というよりは茎だ。まるまると太っている。支えがなくとも直立している。元気がいい。蔓の周りに青い大きな葉っぱが連なっている。態度がでかい。

「おれがここにいるんだぞ」って顔をしていられるのはいいな。そういう生き方暮らし方はいいな。朗らかだな。見ていて気持ちがいい。

その逆はいただけない。しょんぼりしているなんぞは、いただけない。見て見辛い。自信がなさそうにしていると、声を掛けてやりたくなる。「おい、どうしたんだよう」と言いたくなる。でもそういうときも、ある。誰にもある。

行き来をしている。最高と最低をゆるやかに行き来している。

こそこそ隠れるようにして、「おれはどこにもいない」になっている場合もある。

最高に辿り着いている人が、最低に落ちているしょんぼりさんに声を掛けてあげる。助けてあげる。そうであれば2で割ってお互いが1になる。お互いに順送りなんだから。

糸瓜の話がいつのまにか人間にすり替わってしまった。こじれてしまったようだ。

「おれがここにいるぞ」と「おれはどこにもいようがない」。自信タップリ派と自信なげ派。世間にもこの2つの派を見かけることがある。


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一寸の虫にも五分の魂。魂はかなりの大きさだ。

2021年08月27日 11時28分36秒 | Weblog
「一寸の虫にも五分の魂」なる句がある。魂って、すると、ずいぶん大きいんだなあ。非物質のはずなのに。

ま、透明だけどそこにそうやって空間を保持しているという具合に考えておけばいいのかな。

一寸の虫たりとも、お命様、徒(あだ)疎(おろそ)かにすべからず、ということか。

それを肯定しよう。

糸瓜の花が咲いている。ここへひっきりなしに虫たちが飛来してくる。花の蜜を吸いに来ているのだろう。

糸瓜は虫媒花。虫の助けを得て、結実の運びとなる。だから、大いに役目がある。おろそかにはできない。

では、役目があれば存在の価値があるのか。価値を得れば、そこに棲む魂どのが安らぎを得るのか。五分の魂がよろこぶのか。

糸瓜の蔓がたくましく伸びている。そこへ花が幾つも幾つもついている。そこへ虫たちが来て遊んでいる。楽しそうである。


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恐い夢を見て、恐がって魘されて、北風のように唸っていました。

2021年08月27日 07時17分19秒 | Weblog
おはようございます。今日はもう8月27日になっています。金曜日です。

夜中に雨が降っていました。高い雨音が聞こえていました。


夢を沢山見ていました。恐い夢を見て魘(うな)されていました。恐い夢を見るときっと目を覚まします。

するとその後、目をつぶるのが嫌になります。また見させられるんじゃないかと思って。

必死で隠していた自分の弱点が、夢の中では暴露されます。そうするともうおろおろびくびくしているばかりです。

恐い夢を見させられるくらいなら、起きていた方がマシです。こんなにお爺さんになってもまだ安らげません。
コメント (2)
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