「おれは果報者だった」って、昔、死んで行く人が言ってた。
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「果報者」を辞書で引くと、ひとこと、「幸せ者」と出て来る。
「果報」を引くと、「因果応報」と出る。「前世の行いの報い」「業」とも書いてある。
「めぐりあわせのよいこと」「幸運」とも。
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もっと詳しく知りたいなあ。
「おれは果報者だった」で死んでいけるかなあ。
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善業は、善の原因を善の結果にもたらしたこと。
一生、善業を引き受けて生きていけた人っているのかなあ?
おれのことじゃないなあ。
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人間に生まれたことそのものが善業だったってことかなあ。
その善業が、生きている間に、では、どれくらい減ってしまうのだろう?
積み重なったのは悪業悪業悪業なんだろうなあ、このおれの場合は。
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だったら、死ぬときに、「おれは果報者だった」で通せなくなっているよね。
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死ねるってことが善業の報いってことだろうか?
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人は死んで行く。誰もが死んで行く。一人残らす終止形を打つ。打てない人はいない。
それが善業だっていうんだろうか?
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果報を受けていなかったら、人を生きていくことはできなかった。もしもそういうことだったら?
人を生きていけたのなら、じゃ、果報者だったんじゃないのか?
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果報をわが果報として理解することは間違っているのかもしれない。
菩薩は、おのれの善業の果報を他者に振り向けることができる人たちのことを指している。他者に善業を振り向けて、己は他者の悪業を引き受けることができる人、それが菩薩だ。
そういう菩薩がいて、己に善業を振り向け続けたいたとしたら、「おれは果報者だった」という受け止めは正しい受け止めになる。
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「おれは果報者だった」「生涯、無条件で、たくさんの愛情を独り占めにして生きてこられた」「助けられて助けられて助けられて来た」「有り難い人生だった」
そういう受け止めができる人が、昔は、いたのかなあ。
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善業の報いという条件適合の人ってどれくらいいるのかなあ? その条件を外してもらっていないと、愛情をもらい受ける資格なんてないものなあ。
「無条件の愛」を慈悲っていうんだろうなあ、仏教では。仏陀の慈悲は徹底して無条件のはずである。