<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

救済されれば、われわれは誰もが仏陀と同等・同形・同能力になる。

2021年08月17日 17時29分53秒 | Weblog
真実信心(しんじつしんじん)うるゆへに、すなわち定聚(じょうじゅ)にいりぬれば、補処(ふしょ)の弥勒(みろく)におなじくて、無上覚(むじょうかく)をさとるなり。
浄土真宗経典「五十六億和讃」より
わたしはお寺のお坊様ではありません。修行もしていませんし、学問も積んでいません。

間違いだらけですから人様には説けません。わたし自身に言い聞かせています。つまりわたし自身が納得するように解釈をほどこしています。インチキです。読んで下さるみなさんはご自身で解釈をして下さいね。
念仏を唱える者は阿弥陀仏から真実信心を賜ります。そこですぐさま定聚(じょうじゅ)になります。定聚とは「信心が定まって揺るがない人の集まり」です。
ここまで来ればもう弥勒菩薩と同等です。「補処」とは、今生のこの一回を補えば仏陀その人になってしまう人たち(=菩薩)のランクです。弥勒菩薩は、菩薩様です。この五十六億年を菩薩として過ごした後には仏陀になっておしまいになります。菩薩はいわばわれわれの苦界に下りて来て活動する活動部隊・救助部隊です。
真実信心を得たのですから、われわれは間違いなく仏陀と等しい無上覚(=仏陀と同じ最高最上の悟り)を悟ります。
仏教は平等を重んじます。仏陀と平等になります。救済すると言うことはそういうことです。仏陀と等しくなるということです。つまり惜しげもなく全部お譲りになられます。

西洋の神様はそういう全委譲はなさいませんよね。仏教は違っています。何から何まで仏陀と同等同型同能力になるのです。凄いことです。

でもこれは僕の理解です。ほんとうのところは専門の仏教学者やお寺のお坊様にお尋ね下さいね。
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サザエを3個買って来ました。3割引でした。酒の肴にします。

2021年08月17日 17時19分19秒 | Weblog
サザエを3個買って来ました。スーパーの中のお魚屋さんで。夕方の時間だったので、3割引でした。1個100円ほどに当たります。

少し古いのでしょうね。刺身にはできないようです。煮てもらうことにしました。僕の酒の肴になります。いやいや僕だけが独占はしませんよ。家族にも分けます。お尻のジゴの部分はまだ苦手です。砂が含まれているようで、がじっとするからです。

7時ぐらいから夕食です。

医者から止められているお酒を飲んでいます。蒸留酒の焼酎ならいいだろうと理屈を付けて飲んでいます。コップ一杯を5・5のお湯割りにします。酔うとすぐに眠くなります。
働いてもいないのに贅沢です。
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僕は不安になるとすぐに此処へ逃げてきます。

2021年08月17日 16時48分02秒 | Weblog
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果   浄土真宗経典「正信偈」より
いっしょうぞうあくちぐぜい しあんにょうがいしょうみょうか
一生 悪を造るとも 弘誓に値(もうあ)いぬれば 安養界に至って 妙果を証すべし
一生涯ただ悪を造って来たとしても、阿弥陀仏の本願に遇うことができたならば、すぐさま阿弥陀仏の安養の浄土に至り着いて、仏に成るという妙果を成し遂げるであろう。(これは僕の解釈だから浅い解釈です)
「安養界(あんにょうかい)」とは阿弥陀仏の極楽浄土のおとです。こころを安らかにしておける世界です。
「妙果」は「往生成仏という霊妙なる成果」というふうに受け取りました。
僕は不安になるとすぐここへ逃げてきます。此処へ逃げてくると安心をもらえるからです。
よくよく不安に堕ちます。不安になるのはどうしてなんでしょうねえ。ふわりふわり浮いているからでしょう。しっかりと腹が据わっていないからでしょう、きっと。でも逃げ場があります。ここへ来ると慰安が得られます。
一生涯、仏に反して悪を造って来たとしても、それを見越して、阿弥陀仏がそういう悪人をも助けるぞ、きっと必ず救うぞと本願が立ててあります。本願には極楽往生、往生成仏が約束されています。これは仏の側からの功徳成就です。お慈悲の成果です。自力が達成できる種類のことではありません。こちらが気を揉むことではありません。
阿弥陀仏の立てられた本願は船です。この船に乗船すれば、乗っているだけで、お約束の極楽浄土に至り着くのです。こちらはなんの努力も要らないのです。ちょっと虫がよすぎる話ですが、仏さまでなければ成し遂げられないお仕事です、これは。
さあ、気持ちが軽くなってきました。しかし、そのうちにまたすぐにぐらぐらぐらつきます。また不安に襲われます。阿弥陀仏はそう約束をして下さっているが、ほんとうだろうかという疑心が湧いて来ます。するとまた僕は経典に走って行かねばなりません。ご苦労なことです。
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退屈しないで済んだ、一日作品を書いて過ごした。

2021年08月17日 15時32分26秒 | Weblog
3時半を過ぎたばかりなのに、外はもう夕暮れ時のよう。薄暗い。雨は止んでいる。
当地には豪雨災害特別警戒報がまだ出されている。テレビのニュースで近くの被害地の土砂崩れ被害の凄まじい光景が映し出されている。地方新聞にはまだまだそのほかにも被害地の様子が写真に載っている。被害者の方はさぞや悲しかろう。
僕は何処にも行かず家の中に籠もっていた、一日中ずっと。川柳3作品、俳句2選者6作品、短歌2選者6作品。これを一日中書いては消し書いては消していた。葉書5枚に書き写して終わりとした。ふうううっ。溜息を大きく突く。お陰で退屈しないで済んだ。
さ、ちょっと立ち上がってみよう。動き回ってみよう。固定されていた足腰をよろこばしてあげよう。外に出るならシャツを着よう。
雨が上がると、窓の外に、ハグロトンボがよく飛び回っている。ヘチマの蔓が元気よく竹棚を這い回っている。

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箪笥の中に乱れのあらず

2021年08月17日 08時25分39秒 | Weblog
一生涯あなたはなんと几帳面 箪笥の中に乱れのあらず     山鳩暮風
☆ 
落選した僕の作品。平凡すぎる? 奥がない? 悲しくも切なくもない?

だろうね。こんなのはやはり歌になっていないのだろうね。
 
妻のことを歌にしてみました。家の中がきちんとされている。よく掃除が為されている。整頓が為されている。お陰で住み心地がいい。僕のシャツが入った箪笥もそう。乱れがない。

夫が妻に感心してしまうって、もしかして、おかしいかな。一生涯連れ添ってきました。清潔な暮らしのお膳立てをして頂きました。

わたしとの長い暮らしの思い出も、良いこと悪いこと、こんなふうにきちんと箪笥ごとに整頓されていたらどうしよう。少し不安になってきた。
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言い得なければ秘めるまで。

2021年08月17日 07時51分17秒 | Weblog
忍摺(しのぶずり)言い得なければ秘めるまで      山鳩暮風
我が落選の句。シノブグサ。捩摺(もじずり)、忍捩摺(しのぶもじずり)とも。幾重にも身をよじって茎を伸ばし、そこに小さな花を咲かせている。染料にする。
好きな人がいても言い得ないでいることがある。言い得なければ秘めるしかない。秘めて浄化されて、密度を増して、それが夜ごと日ごときらきらに輝き出す。それでも言い得ない。

言い得たからいいというものでもない。ふられるのがオチ。それよりか生涯変わらず、美しい人のままにしておいた方がいい。己もロマンを純粋にして生き通すことになる。
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山の畑の周辺にはいろんな動物たちが暮らしている。

2021年08月17日 07時39分29秒 | Weblog
猪(いのしし)と烏(からす)と鼬(いたち)と穴熊(あなぐま)が畑の西瓜の糖度をためす     山鳩暮風

☆ 
僕の今週の落選歌。見捨てられたから無価値なんだけど。出来の悪い子ほど捨てられなくて。ここに持ち出してみました。
山里の畑にはいろんな動物が来るんであります。山里にはいろんな動物たちが暮らしているからです。彼らは善悪がありません。空かしている腹を満たしたいだけです。咎め立てするよりは警戒をしっかりした方がいい。柵は作って囲っているのだが、彼らは抜け目がない。何処からか忍び込んでいる。そして甘くなったころあい、糖度が増したころあいを見計らって、決行に及ぶ。人間さまがいざいざと期待して畑に収穫に行くと、もうそこは蛻(もぬけ)の空(から)になっている。どうやら、夜明け方の犯行のようである。
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誰にも幼い頃があった。僕にも幼い頃があった。若々しくしていた。

2021年08月17日 05時53分00秒 | Weblog
誰にも幼い頃があった。よね。瑞々しく生きていられた頃があった、よね。目を輝かせていた頃があったよね。煌めく夜空の星のように、きらきらしてたよね。

幼い頃ってどうしてあんなに若々しく純真でいられたのだろう?

せいぜい、しかし、小学校に上がる前くらいで、その輝きの時代は幕を閉じたようにも思う。そのころ幼稚園はなかった。僕はお婆ちゃんと仲良く暮らしてた。可愛がってもらってた。お風呂も一緒、寝るお布団も一緒、過ごしている部屋もいっしょだった。競争相手がいなかった。(4歳違いの弟はお母さんを占領していた。姉はもう小学校に通っていた)

その僕はもうお爺さん。全身が皺のシワシワになっている。シワシワはこころの場面でも同じだ。潤いがない。瑞々しさがない。我がこころの池の、水量の少ない池水は、淀んで濁りに濁っている。

で、そうではなかった頃の幼い頃を懐かしがっている。
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お習いした先生方に可愛がってもらった。そういう純真な頃があった。

2021年08月17日 05時34分01秒 | Weblog
お習いした先生方もすでに大方は鬼籍に名を連ねておられるようだ。
(「鬼籍」とは「過去帳」のことらしい。「鬼」は「亡者」の意。死ぬと別個の戸籍に移動するのかな?)

先生方には「可愛がって頂いた」という記憶がある。特別に可愛がってもらったのではないだろうが、そういう受け止めをしている。先生方へ反抗心は抱いていなかったのだろう。従順だったのだろう。「はい」「はい」を言う子供だったのだろう、きっと。

その頃、僕は、先生を信頼して擦り寄って行く子供でいられたようだ。教えてもらうことによろこびを覚えていたようだ。いまのささくれた僕からは想像もできないが。

もうこの年齢になると擦り寄って行きたくなる人もいない。そういう感情も枯渇している。思い出の中でだけになっている。

「可愛がって頂いた」と思っているのでだろう、この高齢になってもなおそういう先生方に親密な愛着を持っている。回顧して懐かしがっている。できればもう一度会って見たくもなっている。うるるんになっている。

わたしも教職に就いたが、あまり「可愛がって」いなかったかもしれない。可愛がるにはそれだけの熱情・情熱が必要だ。わたしを懐かしがってくれる生徒は、残念ながら、おそらく皆無だろう。
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「目頭が熱くなる」「目頭を押さえる」の「目頭」って何処?

2021年08月17日 04時56分33秒 | Weblog
「目頭が熱くなる」「目頭を押える」の「目頭」とはどこの部分なのか? 
「目尻が濡れる」の「目尻」とは?

鼻柱に近い方が「目頭」。耳に近い方が「目尻」。らしい。

目頭から涙が湧いてくるからここが涙の泉源かな。で、横に広がって目尻が濡れる。眼の涙の池の堤防(堰)を越えて頬に涙が落ちる。これで正解なのかな?

ところで、「目頭が熱くなる」の「熱くなる」ってほんとうか? 涙に涙の温度がある? 涙が湯になっている? 湯になっているとすれば、何処かで沸かしている? 

たしかに目頭の涙は熱く感じる。だったら、頬に流れて来た涙に体温計を当てたら、体温を超えているだろうか? 単にい情緒エモーションの受け止め具合だけなのだろうか? 発火した感動が釜に湯を沸かすのだろうか?

涙はほろほろっと落ちる。「目頭を押える」のは、涙がこぼれ落ちるのを人に見せないためのエチケットなのかしらん? 押さえたくらいで、涙が堰を切って来ないのなら、それは実に「控え目」である。
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