<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

寂しかったろう辛かったろう。

2021年08月11日 18時44分17秒 | Weblog

「お前は悪い人間だ」「お前を裁くぞ」でなくてよかったなあ。

「苦しかったろう悲しかったろう寂しかったろう辛かったろう」「お前を助けるぞ」「お前を救うぞ」でよかったなあ。

助けられて救われて、ようやく生きていける。安堵の息がつける。

そうしてもらっているように、この我も回りにそうしてあげなばならない。

のに、そうしていない。

一方通行だ。すまない。

我ばかりが観音様に助けていただいて、仏さまに助けて頂いて、いい気になっているばかり。そこに、のほほんとして突っ立っているばかり。これで一生が終わってしまう。

これだけ可愛がってもらったのであれば、来世はもう少しマシにならねばならんなあ。1ランク2ランク3ランク、ランクを上げねばならんなあ。愛情のもらいっぱなしじゃいけないなあ。

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だったら、不正義をする僕の居場所がない。

2021年08月11日 18時35分09秒 | Weblog

わはああ、わははあ。僕は正道を外れています。ですから、仏教学の異分子、異端児です。

仏教経典を読むには正道に立脚していなければなりません。僕は、「正しい者のための仏教」には不適合です。

不適格者の僕がそこで安らいでいられるためには、観音様が泣いていてくれないと、悪道の僕の居場所がないのです。

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観音様は泣いて泣いてござってなあ。

2021年08月11日 18時19分40秒 | Weblog

観音様は泣いて泣いてござってなあ。苦しみ悲しみのこの世を生きているわれわれ人間をご覧になって、泣いて泣いてござってなあ。熱い涙が頬を濡らして乾くことがない。

泣いている観音様が、われわれの不正義を暴き出したりなんかされるものか。観音様の眼は慈眼。正義の矛先で突き刺す眼ではない。

庇って下さるばかり。辛かったろう辛かったろう、よくぞここまで耐えて来たと言って、両の手で撫でて擦ってくださるばかり。

まるでおっかさんのよう。

観音経にはそういうことが書いてあります。これはしかしわたしの受け取りです。感情的な受け取りです。

でなければ、とてもとても邪悪のわたしは観音様に合わせる顔がありません。失格者です。すぐすま退場です。退場処分になったら、観音経なんか読めません。

 

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ただただ助けるぞ助けるぞの一点張り。

2021年08月11日 17時27分55秒 | Weblog

「観世音浄聖は、苦悩死厄に於いて、能(よ)く依怙と作(な)りたまへり。一切の功徳を具して、慈眼もて衆生を視(み)やまふゆえに、福聚は海のごとく無量なり」    

法華経・観世音菩薩普門品 第28より

 

 

今日はこの安楽の丘に立つことにします。

 

観世音菩薩は、わたしたちが、苦悩の死苦や苦厄のこの世を過ごすに当たって、いつでも、頼まない内から、力強いお味方になっていて下さっています。

観世音菩薩が具えておられるありとあらゆる功徳(能力? 力量? ハタラキ?)を駆使して、慈愛の目でわたしたちを観て下さっていますから、恐れることはないのです。

ここは計り知ることもできないほど無量の幸福の海であるということを、観世音菩薩が示していて下さっています。そうです、わたしたちは幸福でいていいのです。安心をしていていいのです。

(これはさぶろうの解釈。いい加減の誹りを受けそう)

 

「浄聖(じょうしょう)」は観音様への尊敬語かな? 清浄で神聖なる方というくらいの。「依怙(えこ)」は「頼りにできる存在」「頼り掛かりたい存在」。「依怙贔屓」の語がありますよね。「聚」は「集」に同じ。

えええっ、観音様がこのわたしのことをそんなに依怙贔屓してくださっているとは? 

嘘つきのわたしを? 間違いだらけのわたしを? 邪心が詰まった容れ物でしかないわたしを? 恩を仇でしか返さないわたしを? 

贔屓をしてもらえるわたしではないのですが、それを観て見ぬふりをしてもらっているのです。咎め立てられたら、一刻も此処にはいられません。責めに耐えられるわたしではないのです。有罪判決を受けて終わりになってしまうでしょう。

観音様は咎め立てする菩薩ではないのです。裁く役には就かれていません。見逃してくださる方です。正義の目で洗い出されたら、わたしは悪心悪行ばかりです。逃げ場がありません。

それをそうしないでくださっています。まったく申し訳がありません。

オセロゲームのわたしの邪悪の黒の石をみんなたちどころに白石にひっくり返してくださいます。それができるのが彼の慈悲の功徳力です。

仏教は裁きをよしとしていません。閻魔様などがおられますが、あれは中国仏教のお人形です。裁かれたら、わたしはこの地上では暮らしていけません。此処にはおられません。地獄を設定しているのは倫理です。宗教ではありません。(これはわたしの考えですから、全部間違っているでしょう) 

わたしは許しこそが宗教だと考えています。あまちょろです。許されて許されてしか、このわたしは生きていけません。

観音経に登場される観音様は、ただただ助ける助けるの一点張りです。仏教は救いの宗教です。救うぞ救うぞばかりです。

よかったなあと、わたしは胸を撫で下ろします。贔屓をしてもらっているのです。

 

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浮世のことはあんまり考えないで、ぽああああんとしてる方がいいなあ。

2021年08月11日 17時08分36秒 | Weblog

いくらか小降りになっている。雨垂れの音に間隔がある。

 

3時を過ぎてからしばらくお昼寝をして過ごしました。

 

あんまりいい眠りの状態ではなかったようです。

 

それまでにあれこれ雑念が多すぎました。考え事をしてました。

 

やっぱり年寄りは、浮世のことはあまり考えないで、ぽあああんとしてた方がいいようです。

 

 

浮世のことを離れるにはどうすればいいか。

 

仏教経典を読誦していたらいいようです、この老爺は。

 

意味はあんまり分からなくてもいいようです。

 

薫習という言葉があります。香りが染みこんでくることですよね。

 

染みこんでこなくとも、香りに馴染んでいるだけでもいいのかな。

 

そのうち、あっ、そういうことだったのかと、合点されることがあります。それを待っていてもいいのかな。

 

仏教経典は仏陀の説法です。仏陀の声という芳香を嗅いでいるだけで十分なのかもしれない。

 

 

もうすぐ夕ご飯です。お腹がぐううと鳴りました。今夜は何だろう? 間違いなく、我が家の畑で摘んだオクラが列んでいるでしょう。どんな料理に化けているかなあ。案外、焼いてあるだけ、かも。

 

 

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小人閑居して不善を為す。閑居してなくても、そうだけど。

2021年08月11日 11時38分09秒 | Weblog

朝から雨。雨の音がしている。ざわざわざわざわざわと。草や木の葉が雨を受けている音だろう。でも、騒がしくは感じない。むしろ静かだ。山里だからだろうか、ここが。

 

照りつける太陽がお出ましになっていないから、その分、気温は下がっている。ただいまの外気温は21・5℃。湿度は高い。曇り空雨空は、光を放射しないから、薄暗い。暗鬱を宿している。

 

家族は外に出て行ったので、一人でいる。不活動をして、じっとしている。いつものように音楽を聴いている。己の不活動のリズムに反する曲ではなく、静かな曲を。安らげる曲を。

 

小人閑居して不善を為す。その通りだ。といっても、閑居していないでも、それは同じだけど。よくまあ一生不善だけで通して来られたもんだなあ、とときどき思う。苦笑する。

 

お昼になった。台所に行って昼飯にしよう。インスタントラーメンだったら簡単だ。老爺にも作れる。青紫蘇を細かく細かく刻んで、これに加えて、香りを楽しもう。青紫蘇なら、畑一杯に栄えている。

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