「観世音浄聖は、苦悩死厄に於いて、能(よ)く依怙と作(な)りたまへり。一切の功徳を具して、慈眼もて衆生を視(み)やまふゆえに、福聚は海のごとく無量なり」
法華経・観世音菩薩普門品 第28より
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今日はこの安楽の丘に立つことにします。
観世音菩薩は、わたしたちが、苦悩の死苦や苦厄のこの世を過ごすに当たって、いつでも、頼まない内から、力強いお味方になっていて下さっています。
観世音菩薩が具えておられるありとあらゆる功徳(能力? 力量? ハタラキ?)を駆使して、慈愛の目でわたしたちを観て下さっていますから、恐れることはないのです。
ここは計り知ることもできないほど無量の幸福の海であるということを、観世音菩薩が示していて下さっています。そうです、わたしたちは幸福でいていいのです。安心をしていていいのです。
(これはさぶろうの解釈。いい加減の誹りを受けそう)
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「浄聖(じょうしょう)」は観音様への尊敬語かな? 清浄で神聖なる方というくらいの。「依怙(えこ)」は「頼りにできる存在」「頼り掛かりたい存在」。「依怙贔屓」の語がありますよね。「聚」は「集」に同じ。
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えええっ、観音様がこのわたしのことをそんなに依怙贔屓してくださっているとは?
嘘つきのわたしを? 間違いだらけのわたしを? 邪心が詰まった容れ物でしかないわたしを? 恩を仇でしか返さないわたしを?
贔屓をしてもらえるわたしではないのですが、それを観て見ぬふりをしてもらっているのです。咎め立てられたら、一刻も此処にはいられません。責めに耐えられるわたしではないのです。有罪判決を受けて終わりになってしまうでしょう。
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観音様は咎め立てする菩薩ではないのです。裁く役には就かれていません。見逃してくださる方です。正義の目で洗い出されたら、わたしは悪心悪行ばかりです。逃げ場がありません。
それをそうしないでくださっています。まったく申し訳がありません。
オセロゲームのわたしの邪悪の黒の石をみんなたちどころに白石にひっくり返してくださいます。それができるのが彼の慈悲の功徳力です。
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仏教は裁きをよしとしていません。閻魔様などがおられますが、あれは中国仏教のお人形です。裁かれたら、わたしはこの地上では暮らしていけません。此処にはおられません。地獄を設定しているのは倫理です。宗教ではありません。(これはわたしの考えですから、全部間違っているでしょう)
わたしは許しこそが宗教だと考えています。あまちょろです。許されて許されてしか、このわたしは生きていけません。
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観音経に登場される観音様は、ただただ助ける助けるの一点張りです。仏教は救いの宗教です。救うぞ救うぞばかりです。
よかったなあと、わたしは胸を撫で下ろします。贔屓をしてもらっているのです。