僕のことが好き?/ええ、好きよ/あなたの全部が好きよ/とっても好き?/ええ、とってもとっても好きよ/ほんとにとってもとっても好き?/ええ、ほんとうよ/あなたがとってもとっても好きよ/大好きよ/わおわお/こどもが母さんを抱きしめちゃった 詩集「まばゆいばかりの光を浴びて」より 11「会話」
*
これは幼児と若いお母さんの会話だ。わおわおと言って駆け寄ってきて母さんの両足を小さな腕を伸ばしてぎゅうっと抱きしめちゃった。
少し大きくなったこどもだってやってみたいだろう。分かっていても分かっていても確認をとりたいのだ。反対に母さんがこどもに尋ねている場合もありそうだ。そしてこどもに肯定されて、大の大人の母さんの相好がぐしゃぐしゃに崩れる。
恋人同士でもこんな会話は成り立つかもしれない。「好き」は人をあっという間に元気にすることばだ。貧血になったときのブドウ糖注射のようだ。
「好き」は人を明るくする。健康にする。前向きにする。強い強い肯定語だ。「好き」には凄まじいばかりのパワーが籠もっている。
日本人はあまりこれをやらない。面と向かって"I love you” を言うのを躊躇う。人前では特に恥じる。確認作業を怠る。「好きだよ」「愛しているよ」を乱発するのをよしとしない。目と目でわかり合えるようでなくては駄目だ、などと強がる。なるほどしょっちゅう言っていれば価値が薄れてしまうかもしれない。
*
神様と人間、仏様と人間の間でもこれは成立するだろう。神様は神様の言葉(神語)、仏様は仏様の言葉(仏語 フランス語ではなく仏陀語)を遣っておられるだろうから、あるいは自然界の翻訳者、通訳が介在していなければならないかもしれない。或いは以心伝心かもしれない。ともかく「好きだよ」「大好きだよ」が発せられてこれを受け取れば安心する、ここはこどもと母さんとの信頼関係に類似してくる。肯定語、信頼語だからである。
神様や仏様は実際のところ、相手を信頼するとき、肯定するときに、どんな種類の台詞を吐いておられるのだろう。ちょっと気になるところだ。神様に信頼されているのが人間だからこの台詞は何度も何度も聞いているはずである。仏様に肯定されているのが人間だから何度も何度も耳にして目にして頷いているはずである。