今夜の宿に到着した。大きな施設だ。かっての栄華が偲ばれる。ところが、この宿は荒涼たるもんだ。はるばる数時間をかけ、野を越え山を越え、水を渡り谷を渡りして来たというのに、この寂びよう。がらんがらんだ。ここだったら、そりゃ土曜といえど泊まる客は滅多にいまい。ここは低料金で、たとえば、土足でわいわいがやがや、少年スポーツチームの夏期合宿になら利用できるかもしれない。なんだか一目散に逃げ帰りたい気分だ。疲れていて、だが、もう動けない。道理で、幾分か安料金だったはずだ。安商いのなんとやらか。掃除、管理が行き届いていない。人件費の節約をしておられるのだろう、きっと。いや、侘びしい。ぽつんとした己独りが、よほど哀れになる。風呂用のタオルさえ用意されていない。各所に埃のたまったがらくたが目立つ。長くせずに恐らく廃業になるだろう。人は期待をしてやって来る。がっかりさせぬ方がいい。風呂に入りにいったら入り口には鍵がかかっていた。外は35度の猛暑日なのに、館内には冷房も利かしていないので、汗が引かない。押入の布団類もよれよれの皺皺である。明日は早く宿を発とう。
カーテンを開いた窓に青い空が張り付いている。観海寺温泉郷が間近だ。山も迫る。ワシワシ蝉の鳴き声が松林に染み入る。よく寝た。さっき目覚めて椅子に座して読経した。地蔵菩薩本願経属累人天品一巻を高々と朗唱した。幾度も幾度も読んでいるのだが、毎度新しい驚きが戴ける。この朝がこうして新鮮な朝になる。七十にしてこの経典が我を守り導いていることを思う。別府の空が更に青くなる。さらにさらに青くなる。今日は南に向かう。海を辿りながら佐伯へ向かう。
寝る。といっても、寝てたんだけど。酔ってしまって、とろとろとろ。
この部屋は障害者用の部屋。トイレや風呂場、洗面所がやたらと広い。ベッドも二つ。介護者も泊まれる。
夕ご飯は大部屋の相部屋だった。若夫婦と10ヶ月の赤ん坊が目の前にいた。にこにこの赤ん坊が人気をさらった。目が離せなかった。若夫婦の愛情にも温まった。可愛いなあを連発した。席を立つ際に、若いお父さんが近寄って来て、赤ん坊を抱かせてくれた。望外だった。やわらかなお尻だった。感激した。
気をよくした。いい一日になった。それで、部屋に戻るとすぐ寝てしますった。さっき目が覚めてしまった。酔いが醒めた。赤ん坊の感触が戻って来た。ほかほかふかふかした。もう寝ていい。
2008年8月号の在家仏教誌を昨日たまたま開いてみたらそこにわたしの仏教詩が掲載されていた。一年に亘って執筆をしたことが思い出された。各号とも複数篇書いていたようだ。懐かしくてならなかった。今は2016年だから、8年ほどもさかのぼることになる。
在家仏教という月刊誌がある。社団法人在家仏教協会が発行している。さぶろうは若い頃からの読者だ。だから毎月50年以上も読んでいることになる。主に大学の仏教学の教授陣や日本仏教の各宗派の僧侶たちが講演されたその講演録でページが埋まっている。悩み多きさぶろうの学問所、遠隔講義室になっていた。どの号も傍線が夥しく引かれているし、欄外の空白には疑問点が書き連ねてあり、格闘の跡がしのばれる。その初め、浄土系列の学者として増谷文雄、禅宗系列の学者として鎌田茂雄氏が論陣を張ってリードしておられたようだった。独特の文章に酔いしれた。初代理事長は協和発酵工業k.kの加藤辨三郎氏であった。氏のなみなみならぬ意気込みが伝わって来ていた。こうして、経済界の財政的後押しがあって会の運営が成り立っているようだった。近年、その後押しがままならぬ事態になっているものか、やがて廃刊になろうとしている。長年の愛読者としては残念でならない。
久住のお山は快晴。快適。ここのお宿は高い位置を占めているから、気温もそれだけ爽やかに感じられる。今日はまた一段と空気が澄んでいて、遠くまでが一望できる。阿蘇の五岳すらも手に取れそうだ。山々で構成した寝姿の観音もはっきり見える。阿蘇盆地がさながら海のようだ。松の緑の広がりがそのままで沖合の群青に変化している。壮大な景観を楽しめる。朝湯にもつかった。朝ご飯もおいしかった。我は年寄りさま。らくちんができる。籠もるのはもったいない。どこぞにほっつき歩いてみるとするか。
じゃ、何か得をすることをしたのかね? この男は首を縦に振らない。じゃ、人様に何か得をさせてあげたのかい? これにも縦に振れない。じゃ、得になることは今日一日何もしないで過ごしたというわけだね。彼はここで首を縦に振った。夜も更けた。外に出てみたが、星は見えなかった。それでも夜は更けて行くのである。徒労ということはありえない。あったら、これほど久住のお山が平和で静かであるはずはないのである。灯りの下まで来た。一匹の虻がまとわりついて離れなかった。
夏の久住のお山にはユウスゲが咲いている。薄い黄緑色をしたかわいい花だ。首だけがやたらと高い。これで夏草の茂みから抜きん出ていられる。ユリに似ているがユリよりはずっと控え目かもしれない。観察をするために近くへ擦りよって行った。ラッパの奥に蘂が覗いていた。小さな花虻が飛び出して来た。後には少女のような恥じらいが見て取れた。
いいなあ、人様は! カップルで連れだって。笑顔が美しい。互いに掛け合う笑い声があたたかい。いそいそ。足取りを弾ませて。さぶろうにはそれができない。いつも一人だ。一人で旅に出て終始無言。食べるときも飲むときも寝るときも無言。話しかける人がいないから当然だ。口寂しいので、常備したハーモニカを吹く。童謡を2、3曲。それでまぎれて、また歩き出す。するうちにまた仲良し二人組に擦れ違う。またため息が出る。いいなあ人様は、仲良く手を取り合っていられる人様は。と思う。また下手なハーモニカを吹かなければならなくなる。人が聞いているときにはやらない。今度はクレヨン水彩で遊ぶことにする。詩を書く。誰もいないところで読経する。どれも一人でできることだ。うまく、楽しく人と合わせることが苦手であれば、独りでいるしかないのだ。だったら羨ましがらないといいのに、羨む。厄介な男だ。
部屋の障子戸が明るくなった。戸を開ける。久住の山々が、人ごいしくて、窓から押し入って来る。小鳥がすぐ近くで鳴いている。丘にオニユリの群落があって赤く手招きをして来る。人懐こい。さ、これから朝風呂だ。
部屋は10畳の和室。一人の孤独にはちょうどいいか。朝ご飯は8時。それまでまだたっぷりある。露天のある方角に人の声がする。湯煙が立ち上がる。僕はおもむろに宿の浴衣を羽織る。旅人になるために。