夏の高校野球岡山大会は24日、倉敷市中庄のマスカットスタジアムで決勝戦があり、倉敷商が関西を降し11年ぶり7回目の夏の甲子園出場を決めた。わが母校岡山東商は第1回戦でまさかの敗退であった。
7月25日付の産経新聞によれば『今夏が創部77年という“節目”の倉敷商。北京五輪五輪で金メダルを目指す偉大な先輩・星野仙一監督の背番が「77」。金谷主将は「星野先輩にこの優勝を喜んでもらえれば。目指すものは一緒。ぼくらは甲子園で優勝します」と誓った。 母校の11年ぶりの優勝を伝えられた星野監督は「甲子園出場おめでとう。暑い夏に倉商も頑張ったし、(北京五輪では)私もその勢いにあやかりたい」と話した』と報じている。
そもそも倉敷商と岡山東商の間では、部活動を通じて切磋琢磨することを目的に定期戦行われており、昭和29年11月(戦前)に第1回が開催されて以来続く伝統的行事である。両校からは多くのプロ野球選手を輩出しているが、中では平松政次が同級生である。一方、倉敷商の同級生にはヤクルトスワローズで活躍した松岡弘、そして1年先輩に星野仙一氏がいる。
両校の定期戦では、在学中に1度(2年生の時)倉敷商に応援に繰り出したことは覚えているが、どのスポーツだったかまるで思い出せない。無論松岡のことも星野さんのことも全く記憶にない。
先日も同級生が集まる茶話会でその話に及んだのだが、キムは小生と同様だった。流石に応援団に所属していたO田は、「当時から両氏のプレーは光っていた」とその人並みはずれた技量のことをはっきりと頭に刻んでいた。
さて、その星野仙一氏の野球人生をたどる「星野仙一記念館」が3月19日、倉敷市内にオープンした。いずれは訪れて見たいと念じていたところ、孫に先を越されてしまった。町内のソフトボールで活躍する孫は、ひと足先に両親に連れられ見学を果した。野球のこととなると無我の境地になるのか、大のジャイアンツファンの孫は今日の星野仙一記念館来訪のことを、口角泡を飛ばして話してくれた。
歩んできた道も、行く末も全く違う“燃える男!星野仙一”には遠く及ぶべくもないが、強いて言えばかすかに近似点を見出した。
1947年1月22日生まれの星野氏に対して、小生も同じ1月生まれ。そして60年の歳月を経て、身長180cmに僅か及ばない分、体重では氏の83kgを辛うじて凌いでいる。
7月25日付の産経新聞によれば『今夏が創部77年という“節目”の倉敷商。北京五輪五輪で金メダルを目指す偉大な先輩・星野仙一監督の背番が「77」。金谷主将は「星野先輩にこの優勝を喜んでもらえれば。目指すものは一緒。ぼくらは甲子園で優勝します」と誓った。 母校の11年ぶりの優勝を伝えられた星野監督は「甲子園出場おめでとう。暑い夏に倉商も頑張ったし、(北京五輪では)私もその勢いにあやかりたい」と話した』と報じている。
そもそも倉敷商と岡山東商の間では、部活動を通じて切磋琢磨することを目的に定期戦行われており、昭和29年11月(戦前)に第1回が開催されて以来続く伝統的行事である。両校からは多くのプロ野球選手を輩出しているが、中では平松政次が同級生である。一方、倉敷商の同級生にはヤクルトスワローズで活躍した松岡弘、そして1年先輩に星野仙一氏がいる。
両校の定期戦では、在学中に1度(2年生の時)倉敷商に応援に繰り出したことは覚えているが、どのスポーツだったかまるで思い出せない。無論松岡のことも星野さんのことも全く記憶にない。
先日も同級生が集まる茶話会でその話に及んだのだが、キムは小生と同様だった。流石に応援団に所属していたO田は、「当時から両氏のプレーは光っていた」とその人並みはずれた技量のことをはっきりと頭に刻んでいた。
さて、その星野仙一氏の野球人生をたどる「星野仙一記念館」が3月19日、倉敷市内にオープンした。いずれは訪れて見たいと念じていたところ、孫に先を越されてしまった。町内のソフトボールで活躍する孫は、ひと足先に両親に連れられ見学を果した。野球のこととなると無我の境地になるのか、大のジャイアンツファンの孫は今日の星野仙一記念館来訪のことを、口角泡を飛ばして話してくれた。
歩んできた道も、行く末も全く違う“燃える男!星野仙一”には遠く及ぶべくもないが、強いて言えばかすかに近似点を見出した。
1947年1月22日生まれの星野氏に対して、小生も同じ1月生まれ。そして60年の歳月を経て、身長180cmに僅か及ばない分、体重では氏の83kgを辛うじて凌いでいる。