てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

半世紀ぶりの“声だけの再会”

2012-04-20 17:47:00 | ビジネスと社会
 幼馴染のH内と実に半世紀ぶりに声の対面を果たした。H内は小学校時代の無二の親友だったのだが、中学校1年の時に学区外に転校し、新居を一度訪ねたことは憶えているが、以後付合いが途絶えそれっきりになっていた。

 今回の対面の橋渡し役は、先の比叡山団参で宿泊が同室になったS木氏で、小学校が1年後輩。更には彼が結婚して間なしに新居を建設中、わがアパートに仮住まいをしておられたとのこと。これがきっかけとなり話を進める内に、S木氏の家とくだんのH内が昔住んでいた家が近所と分かり、もしやH内の消息をご存じないか尋ねていたもの。

 それから1週間経ずして、S木氏が八方手を尽くして探り当て、連絡先のメールが届いた。現在、H内は東大阪市に住まいし、八尾市で工場を経営していることまで調べてくださった。昨夜、H内の仕事がハネるのを待って、宅に電話を入れた。

 お互いに半世紀ものブランクがあるので、すぐにわかりあえるかどうか不安を胸に恐る恐る「私のこと覚えとる?」と呼び掛けると、開口一番「村で一番にテレビの入ったomotannじゃろ。(担任の)K村先生が『今日は学校の帰りにommotann家でプロレスを観るのが楽しみ。』と言っておられた。」と宣ふ。
 私からは「(2㎞以上も離れた)H内の家までよく遠征し、当時珍しい種子島(火縄銃)などをおもちゃにして遊んだ。あの銃は今でもあるのか?」と返すと、「織田信長時代の由緒あるものだったが、その後他人に上げ手元にはない。」とのこと。
 お互いの近況を手短に話し、私にはもう一人親友が東大阪市におり、二男が甲子園に住まいしていることを告げ、機会を作って是非とも再会しようと約して受話器を置いた。

 時空を超えての“声だけの再会”だったこともあり、あれだけ親しくしていたにも拘らずどうしても彼の顔が思い出せない。彼の方もそうだと思うし、いま仮に突然会っても結びつかないはずだ。今度会うまでの予備知識として小学校時代のアルバムで写真確認をしようとしたのだが、私としたことがその冊だけ見当たらない。困ったことだ。
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海遊館の主役

2012-04-18 13:47:00 | レジャー
 このほど訪れた大阪・海遊館は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)と目と鼻の先の対岸にある。双方をセットで巡るのも楽しみ倍増でお勧め。

 海遊館の一番の人気者は何と言ってもジンベエザメの海くん・大くん。本州で唯一、ジンベエザメの勇姿と会えるのはここ海遊館だけ。入館するとエントランスからアクアゲートをくぐると巨大なジンベイザメ模型と一緒に記念写真を撮れるスポットがある。

 アクアゲートは、まるで海底を歩いているように一面ブルーのトンネルをくぐり色鮮やかな熱帯魚たちを観察できる。そこから長いエスカレーターで最上階まで登る。
 そこから、順路に従って下り、螺旋状にだんだん下のフロアへとまわっていき、環太平洋生命帯を水面から次第に深海へと旅することになる。どこからでもずっとジンベエザメたちがいる水槽が目に入ってくる仕組み。

 ところで、サメと聞けば映画『ジョーズ』の影響からか、「海の人食い」とか「殺し屋」といった不吉な海のギャングのイメージが先行するが、人を襲うのはホオジロザメ。ジンベエザメは最大で12㍍以上にもなる現生で最大の魚類だが、性格は至って大人しく、巨体に似合わずプランクトンが大好物で、人を襲ったりすることはない。

 「海遊館」の命名の由来は先に触れたが、文字通りここはまるで「海の中で遊んでいる感覚の水族館」である。ジンベエザメが遊泳する“太平洋水槽”が大黒柱のようにド~ンと置かれ、その周りを“南極大陸などの水槽”が脇を固める。これらを螺旋状のスロープを下りながら観察しているうちに、いつしか海にいるような気分に浸れるというもの。
 能の世界でいう主役(シテ)と脇(ワキ)のようなもので、芝居は主役だけでは務まるはずもなく、ワキにどれだけ素晴らしい俳優を集めるかに係ってくる訳だが、ワキの愛らしいペンギンや水中を悠然と漂うクラゲにも癒されたことは言うまでもない。


バックに見える天保山大橋を向こう岸へ渡るとU.S.J.

ジンベイザメ模型と一緒に記念写真

水族館でいきなりこんな動物まで





















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年輪の重み

2012-04-17 10:12:00 | 暮らしと生活
 4月11日、かつての取引先Yさんのご母堂Kさんが満107歳で逝去された。13日の葬儀は他の行事と重なっていたので、止むを得ず12日の通夜に参列させて頂いた。

 立飯に代えて頂いた「道」と題したKさんの半生記を改めて興味深く拝読し故人を偲んだ。そもそもこの半生記は、Kさんのご長男が28年前(当時Kさん79歳)に「仕事師」の母に商売から手を引いて余生を楽しんで貰うように勧めたのがきっかけとなり、よき師について日本画、彫刻、焼物などに取り組み、次々に生まれた作品を大切にし子孫に伝えたいという思いから作品集を思い立ち、折角だからそれにKさんの歩んできた道程を書き添えたらということで出版の運びとなったもの。

 明治・大正・昭和・平成と4時代を生き抜いてきた半生記は、ずっしりとした年輪の重みを伺わせるものだが、それ以上にそこから派生した作品たるや玄人跣の腕前で、謂う所の「六十の手習い」などは口が裂けても言えないほどの出来栄え。著作権問題のこともありここにお見せ出来ないのが辛い。

 国内でご存命の最高齢木村次郎右衛門氏が満115歳だから、岡山県にあっては茶寿(数えの108歳 )を越えたKさんは恐らくトップクラスであろう。
 満百歳の誕生日を前に、30年分の材料を買い込み、「六十・七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」と宣ふ晩年の平櫛田中氏(享年107)を彷彿させる。

 今日は満95歳の義父を連れ出し、岡山市瀬戸町にある宗堂桜見物をしてきた。いつもより少な目の5酌ほどの酒にも拘らず、久し振りの外歩きと車中の揺れが悪酔いを誘い、家内と二人で両脇を抱えて這う這うの体で帰って来た。
 あれほど元気と思っていた義父にも寄る年波を感じるようになった。後2年は頑張って母親の逝った年はクリアして貰いたいと願う今日この頃である。

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なにわ探検クルーズ

2012-04-16 09:32:00 | レジャー
 比叡山団参2日目の旅程のメインは「海遊館」と、「落語家と行く なにわ探検クルーズ」の二本である。既に海遊館には4回ほど足を運んでいるので特に目新しいものはなかったが、「海遊館」の名称を決定したのは上沼恵美子さんと知ったことは意外な新発見であった。詳しくはこちら

 「落語家と行く なにわ探検クルーズ」(100,000円で貸切)は、落語家の案内で大阪の街を川から探検するツアー。今日の案内人はパンフレットに顔写真も載っていない新人「上方落語界の松坂大輔こと笑福亭喬若」。

 湊町船着場をスタート早々、道頓堀川の水門を通過の際には、パナマ運河と同じ工法で水位を下げるという珍しい体験をした。
 近鉄バッファローズの応援歌にあわせて前方に望む京セラドーム大阪のガイドあり。草野球モッチャリーズやモノマネベースボールクラブでは投手として活躍している喬若さんも、2時間10万円で借りて試合をやっているそうだ。

 船は木津川を北上、中之島ウエストピアを右に見ながら大きく旋回し、今度は堂島川を西から東へとゆっくり進む。右岸に橋下大阪の市庁舎、大阪市中央公会堂などが見える。

 左岸に桜の通り抜けで有名な造幣局が見えたと思うや、既に散り染めた桜が“花筏”となって、それもまた一興。大川まで遡った後は折り返し南下、土佐堀川へ。
 喬若さん、ここで篠笛を披露。上方落語界250人の中で篠笛を吹ける人は8人しかいないとか。一行の中から「六甲おろし」をリクエストしたら見事に吹きこなした。

 東横堀川水門でも水位を下げてから南下する。ここからは扇子とタオルを使って落語家芸のさわりを披露。うどんとソバを食べ分けるに20年、聞き分けるのに50年かかると笑わせる。
 続いてしょうもない一言小噺、「ハトが糞をしたって→ふ~ん」、「囲いが出来たね→へぇ~~」「これ炭酸かい?→そうだ(ソーダー)」。「近くに便所ありますか?→とおいで(トイレ)」等々。
 更に、お笑い大喜利と称して(へんが車の)存在しない漢字当てクイズ(題して無理矢理漢和辞典)。車白黒→パトカー、車赤→コカコーラの車、車口→シャベルカー、車子供→自動(児童)車、車回天→オープンカー、車酒酒→ハシコ車、車車→二輪車、最後に「車車車は?」と尋ね、すかさず「三輪車」と答えると、残念でした「とどろき(轟)でした」で落ち。

 日本橋に差し掛かると「大阪ラプソディー」の歌のボリュームを目一杯上げ、屋根も窓も全開してムードは最高潮。喬若さんが両岸の道行く人に「どーも、どーも!」を大きな声を掛けると、大阪人特有のノリノリで元気一杯に手を振って返す。
 相合橋、太左衛門橋を過ぎると右手には「ドンキホーテ観覧車」が見える。突如ここで歌は「六甲おろし」に変わる。タイガース優勝の折にはファンが飛び込むことで有名な戎橋をくぐり、すぐに左手に大阪・戎橋のシンボル「グリコの看板」が見えて来た。いよいよクルージングも終盤を告げる。この辺りの水深5㍍で船室下がり始めた。ほどなく船着場に到着し105分のクルーズをクライマックスのまま無事終えた。
 別れ際に喬若さんに「どうも有難う。今後のご活躍をお祈りします」と握手を求めたら、思いの外小さいながらゴツゴツした手で「クイズでの名答ありがとうございました」と、強く握り返された。草野球の投手で鍛えた故か。


めちゃ明るい笑福亭喬若さん

見る間に水位が下がる

京セラドーム大阪

SUMITOMO HOSPITAL

大阪の八百八橋のひとつ?

話題に事欠かない橋下大阪市庁舎

市庁舎に隣接する大阪市中央公会堂

造幣局前の“花筏”

行き交う屋形船

造幣局の桜

この後手を振って応じてくれたなにわ?ギャルたち

喬若さんの篠笛に手拍子

右手の日本経済新聞社のビルの向こうに大阪城

林立するビル群

こちらからも手を振っての声援

大阪・戎橋のシンボル「グリコの看板」
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比叡山団参と西国霊場巡り

2012-04-12 12:24:00 | ビジネスと社会

大講堂をバックに比叡山団参の記念写真

 4月13日~14日の日程で、菩提寺安養寺の住職・副住職を先達に檀信徒の総勢29名で、比叡山延暦寺へ団体参拝(団参)した。私にとっては前回以来4年ぶりの参拝である。

 先ずは古都京都の文化財として世界遺産に登録されている宇治平等院を参拝した。藤原氏ゆかりの寺院で2度目の訪問だが、前回が何時だったか思い出せないほど昔のこと故、境内の様子もよくは憶えていない。辛うじて鳳凰堂だけが10円硬貨の表の絵柄として有名なのではっきりと記憶にある。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼道、開山は明尊である。

 続いて、西国三十三所霊場の十三番札所石山寺を参拝した。紫式部ゆかりの花の寺として有名である。

 比叡山に到着すると先ず延暦寺阿弥陀堂に向かい、阿弥陀様の前で○○大僧正を導師に仰ぎねんごろなる回向を賜った。雲行きがおかしくなりポツリポツリとしていたが、引き続いて延暦寺職員の案内で大講堂へ移動する頃には雨も上がった。これも信心のご利益の表れ。
 大講堂では「お寺は洗心するところ。手を合わせ感謝をすることが大切。いまこそ原点に返り、努力を続けて欲しい。伝教大師の教えを借りるなら一隅を照らす人が国の宝である。夫々が支えあって生きている。暗い所を照らすだけでなく、見えない所こそ光を出して輝きなさい、努力しなさい。悪事は己に迎え、好事を他人に与えよ。己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」との有難いお言葉を賜った。
 大講堂は学校でいえば教室、正面は本尊の大日如来、本尊の両脇には日蓮・道元・栄西・円珍・法然・親鸞・良忍・真盛・一遍といった、比叡山から大成して新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されている。

 宿舎の延暦寺会館は根本中堂の近くにある。団体客は我が一行だけで、あと個人グループが数組だけの、ほぼ貸切状態。バスも我々一台だけのため特別に玄関先に横付け駐車が許された。各部屋に旅装を解き、窓からは琵琶湖を一望出来るのだが、生憎と今宵は小雨に煙って視界がままならない。

 一夜明けて早朝6時半から根本中堂において朝のお勤めがあった。真っ先に大震災で犠牲になった方々への鎮魂の祈りを捧げた。
 根本中堂は最澄(伝教大師)が788年、前身の一乗止観院を創建。焼失などを繰り返し、1571年の織田信長の比叡山焼き打ち後、徳川3代将軍家光の命で再建された。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来。
 堂内には創建以来、1200年もの間一度も絶やすことなく守られてきた「不滅の法灯」がゆらめき、思わず寒気すら覚えるような荘厳さと歴史の持つ威厳を前にして、心が洗われる思いがした。4月10日が祥月命日だった親父をはじめ、先祖代々の追善供養ができこの度の比叡山団参は意義深いものとなった。


宇治平等院の鳳凰堂

紫式部ゆかりの石山寺

延暦寺阿弥陀堂での法要
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