涼しくなった夕方に立川駅近くの本屋さんまで遊びに行った。 新刊書の棚には上下2分冊の安楽死をテーマにした小説が展示してあった。 出だしは、20代前半の若い癌患者が苦痛の内にベッドに横たわり、付き添っている年配の女性が担当医師に「これ以上苦しまないようにしてやって来れ」とお願いしている場面から物語は始まっていた。 結構興味をそそられる展開ではあったのだけれど、購入しないで帰って来ました。 そんな小説に触発された訳ではないけれど、 今日は人の死に際について書いてみます。
66年以上も年を重ね、 両親も亡くなった身としては人の死に立会う場面は何度か有ったのだけれど、決定的な死に際の場面に遭遇した事は一度しかありません、 しかもそれは赤の他人だった。 40年近い昔の事、群馬大学の病院で母が手術を受けて回復を待っていた病室に見舞いに行った時だった、 隣のベッドには80歳以上とおぼしき細身のお爺さんがゼイゼイする呼吸音をさせながら横たわっていた。 ベッドの傍らには連れ合いらしいお婆さんが付き添っていらした。 看護婦を従えて回診に見えた医師にお婆さんが「先生、喉に痰が絡まって苦しそうなので取ってあげてくれませんか」と依頼した。 医師は看護婦に指示して吸引器を持ち込ませ、痰の吸引作業を始めた。 その作業中の事だった、取ろうとした痰が逆に気道を塞ぐ形になってしまったらしく呼吸停止、心臓停止へと瞬く間に暗転していった。 呼吸停止の辺りまではベッドの周囲のカーテンは解放されて痰吸引作業は僕にも見えていたのだけれど、酸素吸入準備、心臓マッサージへと続く慌ただしい指示や施術は患者さんのベッドの周囲のカーテンがひかれて見えなくなった中で行われ、「ご臨終です」の言葉を告げる医師の声が聞こえてくるまで5分か10分もしなかったと思います。 医師に痰の吸引を頼んだお婆さんは泣くでも無く、医師に食って掛かるでもなく、奇妙な静けさのまま控えていた事を覚えています。
その時、隣のベッドにいた母は目に出ていた黄疸による白目の黄色もスッカリ綺麗に晴れて目出度く退院出来ました。 しかし、退院して一年後の今頃の時期には再発し、最後は昭和天皇さんと同じ様に下血するような症状となり、暑い盛りの8月初旬に亡くなりました。 その時期は僕の勤務先が全社一斉の夏休みの最中だったので、実家に帰り輸血のための血液を提供したり、看病したりしていたのです。 しかし亡くなる当日、同じ町内の先生が家に往診に見えた時「近親の方を呼んだ方が良いです」と言われて、たまたま見舞いに来てくれていた叔父から「お前電話しろ」と言われて店先に設置してあった赤電話から何軒もの親戚に電話していた最中に息を引きとってしまいました。 所謂臨終の言葉を聞く暇も何もありませんでした。
この後、何年もの間を置きながら、父、義父、祖母、義母と順に旅立って行ったが、いずれも最後の瞬間に立会う事はありませんでした。 祖母を除くと何れも苦痛を伴う最後だった様だが、 亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。
66年以上も年を重ね、 両親も亡くなった身としては人の死に立会う場面は何度か有ったのだけれど、決定的な死に際の場面に遭遇した事は一度しかありません、 しかもそれは赤の他人だった。 40年近い昔の事、群馬大学の病院で母が手術を受けて回復を待っていた病室に見舞いに行った時だった、 隣のベッドには80歳以上とおぼしき細身のお爺さんがゼイゼイする呼吸音をさせながら横たわっていた。 ベッドの傍らには連れ合いらしいお婆さんが付き添っていらした。 看護婦を従えて回診に見えた医師にお婆さんが「先生、喉に痰が絡まって苦しそうなので取ってあげてくれませんか」と依頼した。 医師は看護婦に指示して吸引器を持ち込ませ、痰の吸引作業を始めた。 その作業中の事だった、取ろうとした痰が逆に気道を塞ぐ形になってしまったらしく呼吸停止、心臓停止へと瞬く間に暗転していった。 呼吸停止の辺りまではベッドの周囲のカーテンは解放されて痰吸引作業は僕にも見えていたのだけれど、酸素吸入準備、心臓マッサージへと続く慌ただしい指示や施術は患者さんのベッドの周囲のカーテンがひかれて見えなくなった中で行われ、「ご臨終です」の言葉を告げる医師の声が聞こえてくるまで5分か10分もしなかったと思います。 医師に痰の吸引を頼んだお婆さんは泣くでも無く、医師に食って掛かるでもなく、奇妙な静けさのまま控えていた事を覚えています。
その時、隣のベッドにいた母は目に出ていた黄疸による白目の黄色もスッカリ綺麗に晴れて目出度く退院出来ました。 しかし、退院して一年後の今頃の時期には再発し、最後は昭和天皇さんと同じ様に下血するような症状となり、暑い盛りの8月初旬に亡くなりました。 その時期は僕の勤務先が全社一斉の夏休みの最中だったので、実家に帰り輸血のための血液を提供したり、看病したりしていたのです。 しかし亡くなる当日、同じ町内の先生が家に往診に見えた時「近親の方を呼んだ方が良いです」と言われて、たまたま見舞いに来てくれていた叔父から「お前電話しろ」と言われて店先に設置してあった赤電話から何軒もの親戚に電話していた最中に息を引きとってしまいました。 所謂臨終の言葉を聞く暇も何もありませんでした。
この後、何年もの間を置きながら、父、義父、祖母、義母と順に旅立って行ったが、いずれも最後の瞬間に立会う事はありませんでした。 祖母を除くと何れも苦痛を伴う最後だった様だが、 亡くなる前日に会った時の義父の格好良さは想い出に残っている。 いずれ書いてみたい。