楽しい日々

ホームページを作ることが 与えてくれた楽しみや 主婦の日々の思わぬ出来事を 聞いて聞いて!  

蒲郡市三谷町

2013-06-28 10:28:22 | Weblog
祖父が人生の終の棲家として 選んだのは 宝飯郡御津町御馬
引くま野という 土地だった。
どうして 海岸のそばで この地を選んできたのか
あまり 気にしたことはなかった。

祖父が亡くなる臨終のとき 私は小学校に上がったばかりだったと思うが
女でも 勉強していく時代になったから 真剣に勉学するように
と 語って亡くなった。

みごとに そのセリフは現実となってはきている。

今思うと 祖父の失意は大きかったに違いない。
戦後、お金の価値がなくなり
跡継ぎと考えていた軍医として赴任した 期待の息子は
餓死して 指だけとなって帰国した。

宝飯 飯だけは 豊富な土地で 愛知にすむ親せきは多い。
大阪でおおきく医院開業していた家をひきはらって 
別荘地にすむことにしたのだ。
実は 蒲郡市の 三谷町がよかったが 当時は温泉で
にぎやかで 購入も困難で
長男の住む御津の地にしたのではと 思う。

実は 自腹で敷地内 温泉も掘り起こしたりして 
また砂地だというのに 好きなガーデニングをして
小さな小間をもうけて 終の棲家とした。
いま この五十路になると 感じる。
日本の旗を 俺の目の黒いうちは祝日に揚げてくれるな。
そう語った 祖父の思い。

さらに 
実は 弘法大師の意思をくむ この
御津という土地に 人生の思いがあったのかもしれない。
日本は もっと 違う生き方を続けるべきだった。
それは 仏教の本来のシンプルなビジョンだと。
そんな気がしてきている。

いまや 万葉の時代の豊かさはどこへやら
当たり前だった 品格も教養も
もったいないも 空前のともしびではないだろうか。
仏閣内の木を切り倒しても ゴミ扱い
せめて 仏像にでもと 考える僧侶様もおいでないようだ。
女性の着物の着こなしも 内また歩きの所作も もう見られない。
政治も社会も なんか見失ってしまっている。

祖父は 医者の家柄ではなく 大学を卒業したでもなく
書生として 奉公し 検定で医者になったのだと聞く。
一時は 大阪で 洋館 和館と大きな庭を持つ医院を
構えていたと聞いている。
戦争は 祖父の人生終末に 丁度 
負け戦となってのしかかった。

それは 日本全体がそうだったので
祖父は その当時としては 幸せではあったように思う。
戦死(餓死)した一人を除いて 私の父は68 兄たちは80歳ごえをし
その生活の知恵はたいそうなものだったとも 思う。
祖父のお腹は ふくらんでいて 私はよく滑り台をさせてもらった
腹話術が得意で 笑いの種が絶えない家族だった。
その祖父の思いが 今も私を
引くま野に 引きつけているような気がする。



人の知恵は 自然から授かるもので 勉学とは別のものだと
祖父から 今も 教わっているように感じている。

その授かる知恵は じーっと集中して観察する能力だったり
自分の身を外から眺めて見つめる能力だったり
どんな動物にもある 感受性の能力だったりする。
算数ばかりして 漢字ばかり勉強しても いい考えはうかばない。
著名な人物の幼少は 自然に囲まれていることが多い。

これから ますます人間は増え 過酷な時代になりそうだけれど
私も 知恵を授かることができるよう
洗練への努力を していこうと思う。

主婦をしてきただけの私だけれど ここまで
子育てをして 年をとってきて思うことは
 子供の集中する時間を邪魔しない
自然をみつめる時間を大切にする
ぜひ そんな子育ても存在してほしいと 願ってやまない。 
 
 

カーマ

2013-06-27 23:55:31 | Weblog
JR稲沢駅に 大型店舗のカーマが登場するらしいい。
いろんな個性の住居 お庭ができてくれることに
 なっていくのだろうか。
 
最近は 瓦屋根のない 日差しをもろに受ける構造の家が多く 耐震性はいいだろうけれど
消耗は激しそう。それでも 耐久性も意外に軽いから あるのかもしれない。
店舗も お金をかけて長く使う店舗よりも 突貫で20年使う感じの店舗が
多くなってきている。

作っては壊し 壊しては作ってと 人間に 
地球も大変なお付き合いをさせられている。
でも 一本の木が建築に耐えられるまでに育つのは 50年はかかる。

大きな木は邪魔だから 枯葉がおちて 掃くのが面倒だから
では 息をして吸う酸素は どうするの。
何度繰り返しても たりない。
何度も繰り返し そーっと木を育んでいたい
と叫んでいきたい。
自動車を酸素なしで 走らせることができるの。
ガソリンが燃えくれるのは酸素のおかげ
 酸素は人間が生み出せるの。

暗いことを考えていても 仕方がないので
せめて お庭が一軒でもおおく 広がるといいなあ。



興正寺さんの蛍に逢う会

2013-06-22 22:38:18 | Weblog
偶然 多くの人たちに出くわしました。

興正寺に いつもより
ちょっと遅い時間でしたが お参りにと行くと
お子様やら 若い方やら おおぜい興正寺にあつまってきていました。
 そういえば 今日明日は 観蛍会です。

蛍を見たい人が こんなにいるなんて ちょっと驚きです。

でも 虫さされはいや 暗闇はいや
 都会の真ん中で 蛍が見たいということでしょうか。

昔 袋井の法多山に 蛍を見に行ったときは 真っ暗闇でした。
それは それは 大切に育てられていた蛍で 
沢山舞い 感激したものです。

今どうしているのやら。

なには ともあれ 蛍を見たい人が 沢山いることに
ほっとします。

これが ちょっと人間様だけ良ければよい
これを 我慢をして 蛍のために 譲ってあげられる人々に
なりたいものです。


植物のスイッチ

2013-06-13 00:25:50 | Weblog
今年の気候は梅雨が成立しない。

なんとか 稲が伸びてきたものの どうも 収穫があやしいきがしている。
心配したところで 好転するわけもなく 神頼み。

この植物たちのシンプルな体に どんな装置がしくまれ プログラムが展開されるのだろう。
苺は シュートをのばし 花をつけることはない。うーん何で判断し なぜ。


今日は長雨にジャガイモが傷んでしまわぬうちにと 収穫した。
出来栄えは 上々。早速 ころころ揚げにした。
なぜ この ころころ揚げを 商品にしないのだろう。
小さなジャガイモも ころころあげなら 手間もかからず 日持ちもする。


畑の残り時間は 春菊の はなが咲いてしまっているので 
ズッキーニや 豆の間に 春菊を切り花にして まいた。
病気や虫を よけてくれるかもしれない。

実は ジャガイモの上に 春菊を乗せたものだけ 未だに 痛まず元気なの。

帰ろうとすると 虫をお腹いっぱい御馳走になったのか 蛙君が出現、
きゅうり でかいよと 言わんばかり。
草取りした御褒美にと きゅうりの一番なりを収穫してきた。


田植えの遅れ

2013-06-03 23:52:32 | Weblog
今年は春が寒く 気温の変化が激しく
苺は ずっと青いまま 二日ほど色づいたかと思ったら
一気に気温があがり  粒がざらざらした いちごとなり
もう 抜いてしまう人が 多い。

田植えが 五月二十日ごろで 未だに 十センチほどの 稲。
以前は 田に多くの 鴨がこそだてに シラサギが 食事にやってきていた。
いるには いるけれど 水場がセメントになったことで過酷な状況になり 激減している。

酸素も人間様が創世するかの勢いで 木々も 魚も 鳥たちも 過酷。

そんななか 畑に 今年も 雉の声が聞こえていた。

本日 であってしまった。

畑に行くと 雉は 私が気付いていないかのように 左右に揺れながら 畑を退散し
垣根から 私を見つめていた。

どうか どうか 残り少ない雉の家族 お守りいただけますように
垣根の外に こっそり 雉用の西瓜を 植えてきた。