祖父が人生の終の棲家として 選んだのは 宝飯郡御津町御馬
引くま野という 土地だった。
どうして 海岸のそばで この地を選んできたのか
あまり 気にしたことはなかった。
祖父が亡くなる臨終のとき 私は小学校に上がったばかりだったと思うが
女でも 勉強していく時代になったから 真剣に勉学するように
と 語って亡くなった。
みごとに そのセリフは現実となってはきている。
今思うと 祖父の失意は大きかったに違いない。
戦後、お金の価値がなくなり
跡継ぎと考えていた軍医として赴任した 期待の息子は
餓死して 指だけとなって帰国した。
宝飯 飯だけは 豊富な土地で 愛知にすむ親せきは多い。
大阪でおおきく医院開業していた家をひきはらって
別荘地にすむことにしたのだ。
実は 蒲郡市の 三谷町がよかったが 当時は温泉で
にぎやかで 購入も困難で
長男の住む御津の地にしたのではと 思う。
実は 自腹で敷地内 温泉も掘り起こしたりして
また砂地だというのに 好きなガーデニングをして
小さな小間をもうけて 終の棲家とした。
いま この五十路になると 感じる。
日本の旗を 俺の目の黒いうちは祝日に揚げてくれるな。
そう語った 祖父の思い。
さらに
実は 弘法大師の意思をくむ この
御津という土地に 人生の思いがあったのかもしれない。
日本は もっと 違う生き方を続けるべきだった。
それは 仏教の本来のシンプルなビジョンだと。
そんな気がしてきている。
いまや 万葉の時代の豊かさはどこへやら
当たり前だった 品格も教養も
もったいないも 空前のともしびではないだろうか。
仏閣内の木を切り倒しても ゴミ扱い
せめて 仏像にでもと 考える僧侶様もおいでないようだ。
女性の着物の着こなしも 内また歩きの所作も もう見られない。
政治も社会も なんか見失ってしまっている。
祖父は 医者の家柄ではなく 大学を卒業したでもなく
書生として 奉公し 検定で医者になったのだと聞く。
一時は 大阪で 洋館 和館と大きな庭を持つ医院を
構えていたと聞いている。
戦争は 祖父の人生終末に 丁度
負け戦となってのしかかった。
それは 日本全体がそうだったので
祖父は その当時としては 幸せではあったように思う。
戦死(餓死)した一人を除いて 私の父は68 兄たちは80歳ごえをし
その生活の知恵はたいそうなものだったとも 思う。
祖父のお腹は ふくらんでいて 私はよく滑り台をさせてもらった
腹話術が得意で 笑いの種が絶えない家族だった。
その祖父の思いが 今も私を
引くま野に 引きつけているような気がする。
人の知恵は 自然から授かるもので 勉学とは別のものだと
祖父から 今も 教わっているように感じている。
その授かる知恵は じーっと集中して観察する能力だったり
自分の身を外から眺めて見つめる能力だったり
どんな動物にもある 感受性の能力だったりする。
算数ばかりして 漢字ばかり勉強しても いい考えはうかばない。
著名な人物の幼少は 自然に囲まれていることが多い。
これから ますます人間は増え 過酷な時代になりそうだけれど
私も 知恵を授かることができるよう
洗練への努力を していこうと思う。
主婦をしてきただけの私だけれど ここまで
子育てをして 年をとってきて思うことは
子供の集中する時間を邪魔しない
自然をみつめる時間を大切にする
ぜひ そんな子育ても存在してほしいと 願ってやまない。
引くま野という 土地だった。
どうして 海岸のそばで この地を選んできたのか
あまり 気にしたことはなかった。
祖父が亡くなる臨終のとき 私は小学校に上がったばかりだったと思うが
女でも 勉強していく時代になったから 真剣に勉学するように
と 語って亡くなった。
みごとに そのセリフは現実となってはきている。
今思うと 祖父の失意は大きかったに違いない。
戦後、お金の価値がなくなり
跡継ぎと考えていた軍医として赴任した 期待の息子は
餓死して 指だけとなって帰国した。
宝飯 飯だけは 豊富な土地で 愛知にすむ親せきは多い。
大阪でおおきく医院開業していた家をひきはらって
別荘地にすむことにしたのだ。
実は 蒲郡市の 三谷町がよかったが 当時は温泉で
にぎやかで 購入も困難で
長男の住む御津の地にしたのではと 思う。
実は 自腹で敷地内 温泉も掘り起こしたりして
また砂地だというのに 好きなガーデニングをして
小さな小間をもうけて 終の棲家とした。
いま この五十路になると 感じる。
日本の旗を 俺の目の黒いうちは祝日に揚げてくれるな。
そう語った 祖父の思い。
さらに
実は 弘法大師の意思をくむ この
御津という土地に 人生の思いがあったのかもしれない。
日本は もっと 違う生き方を続けるべきだった。
それは 仏教の本来のシンプルなビジョンだと。
そんな気がしてきている。
いまや 万葉の時代の豊かさはどこへやら
当たり前だった 品格も教養も
もったいないも 空前のともしびではないだろうか。
仏閣内の木を切り倒しても ゴミ扱い
せめて 仏像にでもと 考える僧侶様もおいでないようだ。
女性の着物の着こなしも 内また歩きの所作も もう見られない。
政治も社会も なんか見失ってしまっている。
祖父は 医者の家柄ではなく 大学を卒業したでもなく
書生として 奉公し 検定で医者になったのだと聞く。
一時は 大阪で 洋館 和館と大きな庭を持つ医院を
構えていたと聞いている。
戦争は 祖父の人生終末に 丁度
負け戦となってのしかかった。
それは 日本全体がそうだったので
祖父は その当時としては 幸せではあったように思う。
戦死(餓死)した一人を除いて 私の父は68 兄たちは80歳ごえをし
その生活の知恵はたいそうなものだったとも 思う。
祖父のお腹は ふくらんでいて 私はよく滑り台をさせてもらった
腹話術が得意で 笑いの種が絶えない家族だった。
その祖父の思いが 今も私を
引くま野に 引きつけているような気がする。
人の知恵は 自然から授かるもので 勉学とは別のものだと
祖父から 今も 教わっているように感じている。
その授かる知恵は じーっと集中して観察する能力だったり
自分の身を外から眺めて見つめる能力だったり
どんな動物にもある 感受性の能力だったりする。
算数ばかりして 漢字ばかり勉強しても いい考えはうかばない。
著名な人物の幼少は 自然に囲まれていることが多い。
これから ますます人間は増え 過酷な時代になりそうだけれど
私も 知恵を授かることができるよう
洗練への努力を していこうと思う。
主婦をしてきただけの私だけれど ここまで
子育てをして 年をとってきて思うことは
子供の集中する時間を邪魔しない
自然をみつめる時間を大切にする
ぜひ そんな子育ても存在してほしいと 願ってやまない。