いつも四月に戦没者慰霊祭が 桜咲く大恩寺で行われ 子供のころ母に連れられてか 祖母に連れられてか 出かけた記憶があります。
その後 実家に住む住人は 母一人になり 時代の変遷とともに変わってきても
勉めとして 母が慰霊祭にでかけてきたようです。
我家は戦時 祖父母の子供は 男子4人女子一人でした。
医師だった祖父は 密かに工夫を凝らしていたのか 戦死者は三男一人でした。
軍医で出征したのですから 安全なものと思っていたそうですが
医者を唯一引き継いだ三男が戦死したのですから 残念だっろうと思います。
しかも 指だけの帰国で ソナムで餓死したと聞いたのですから
その叔父の慰霊祭に 母の代理で出席してきました。
主人が亡くなって一年目で 叔父の慰霊祭に出席するのも
なにかつながりを感じます。こじつけかもしれませんが。
国のために出征した叔父が
戦時当時 どんな思いだったか 想像もつきません。
恋人とも結ばれず 勉学してきたことは まったく食料がないのですから
いかずことができず 餓死という形で この世を去った
その 無念が 祖父の存在を通して
私に語りかけていたような気もするのです。
主人は地方病院の外科医でした。
私が中学生のときから 主人とずっと縁が続いたのも
その主人が外科医になったのも
背景に祖父の思いがあったように 今やっと気が付きました。
無意識の選択の中に 先人の思いというのは 自分の人生にかかわっているようです。主人は叔父がいきてやってみたかっことを 成し遂げてきていた気がするのです。そして 主人が人生を終えたのは 時代が変遷しかわったからのような気もします。
ことあるごとに起きる苦労打開策のヒントは
常に 祖父の言葉だった気がするのです。
死に際に これからの時代は 女の子が勉学して活躍する時代になるから
努力するようにと 言われたこと
医者は 難しい病気をなおすことに真剣になることも大事だが
なんでもない失策を安易にとらえてしないことが 最も大事なのだと
言っていたこと
そして 社会党の演説に 大声でそうだと 叫びつつ
自民党に投票していたこと
俺の目が黒いうちは 日本の国旗を掲げてくれるなと言っていたこと
そのまま自分の行動につながってはいませんが
価値判断をするとき 人生の選択を迫られるとき
参考になってました。
先祖の思いを引き継ぐことも 必要なことだと感じます。
今日 戦没者慰霊祭に出席して 消えゆく戦争の過去の痕跡 その実像が
空前の灯であることを 実感してきました。
美多満箸は 限られた人に配られることになり
少額ですが 集金されていました。
ぜひ集金するのであれば どう戦時になり 現実何が起きていたのかを
語り継がないと
またおろかなことが 始まってしまうかもしれません。
起こしたことを 無かったことにできないのですから。