噛みつき評論 ブログ版

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犬猫の供出・・戦時下の悪夢

2007-06-08 21:37:03 | Weblog
 2006年11月4日、NHKラジオ第1で『犬の消えた日』という番組が放送された。07年1月21日朝7時、NHK総合のニュースの中で、『猫供出の思いを本に』というタイトルの番組が放送された。

 11月の番組は犬の供出を、1月の番組は猫の供出をとり上げたものだった。偶然、私は猫の方だけを見た。昭和20年、12歳のときの供出の体験を本にされたという滝島雅子さんという方が出演されていて、当時のことを話された。簡単に大筋だけを述べる。

 当時、彼女の家はクロという猫を飼っていた。彼女はいつもクロと一緒に寝ていたそうだ。供出されることになり、親に言われて、仕方なくクロを袋に入れ、指定された場所に持っていった。棒を持った男が2人立っていて、まわりの雪は赤く染まっていた。彼女は渡さずに帰ろうとしたが非国民と言われ、やむを得ず渡した。クロはその場で撲殺された(詳しい記述は*1)。

 60年ほど前、我々のご先祖様たち、父母や祖父母たちがやったとは思いたくない話である。現在との感性の違いはあるとしてもだ。これを単純に戦争のせいだとして片付けてはならないと思う。反戦好きの人はすべてを戦争のせいにする傾向があるが、他の多くの要素も見なくてはならない。

 戦争をした国は多いが、米英仏などの先進国でこんな野蛮なことをした国は恐らくないだろう。犬猫の供出など、国民に与える苦痛の大きさに比べ、その有用性があまりにも小さいのだ。この事件の要素として戦争が最も大きいことはもちろんだが、国民性や社会の構造が一定の役割を果たしていたのではないだろうか。

 藤原正彦氏は著書「国家の品格」の中で武士道や惻隠の情など様々な例を引いて過去の日本国民をさかんに美化されている。また右翼雑誌にも同様な議論が見られる。だが、同じ国民がこんなことをやっているようでは、彼らの言うことはあまり信用できないな、とも思う。悲惨で愚かなことはこれだけではないと思うからだ。

 犬や猫の供出は、毛皮を集めて軍事用の帽子や飛行服など防寒具を作ると名目で行われたそうだ。06年の東京新聞からの孫引きであるが、「町内会が警察や役所と協力する「犬の献納運動」は、四四年十二月に軍需省化学局長、厚生省衛生局長の連名で徹底を促す通達が出され、強制力が増した」という記述がある(*2)。全国的に供出が実施されたことは体験談がいくつも残っており、事実と考えてよさそうだ。供出は実質的には強制だと見てよいだろう。

 これも孫引きだが、正論1月号で中村氏が引用したように、「犬の供出があったか疑わしい」、「供出により全ての犬猫が殺されたのであれば、土佐犬、秋田犬、柴犬などの純粋な日本犬はいなくなっている筈だ」などという意見もあるそうだが、論理面だけ考えてもまともに取り合う価値のないことがわかる(*3)。

 非国民といえば誰も逆らえなかった当時の状況が背景にあったのだろう。だがこの事件を通じて注目したいのは、過剰な反応をする一部の人間の存在である。もちろんそれは事件の一部の説明でしかないが、他の社会現象を観察する場合にも興味のある視点になるうると思うからである。

 当時、他に例を見ない特攻作戦を発案・実行した者達、終戦の玉音放送を録音したレコードを奪って降伏を妨害し本土決戦を主張した連中、現代ではダイオキシン騒ぎにキャンプファイヤーまで禁止した自治体の役人、など熱くなって過激に走る人間は、いくらでもいる。始末が悪いことに、良いと信じてやっているので制御がききにくい。彼らには合理的な説明が通じないのだ。

 かつての戦争を始めたのも、敗色が明らかな状況で戦争を中止できなかったのもこのようなタイプの人間の存在の影響を無視できないと思う。また明治期の東京帝国大学の教師であったチェンバレンは日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」をあげているそうである。過激人間と付和雷同人間の組み合わせが最悪の暴走を招いたとの見方も可能だ。国を挙げての煽動が、予期された以上の結果を生み、誰も制御できなくなったのではないだろうか。

 国民総動員のための宣撫工作にはメディアの積極的な協力が不可欠であったと思う。戦時中の言論弾圧はメディアの責任逃れのため戦後、誇大に伝えられているが、実際はそれほどでもなかったと一部では指摘されている。実際にはメディアにも過激分子がおり、軍部が望む以上に積極的に協力したのではないだろうか。

 たいていの場合、勇敢で単純・積極的な意見は協調されやすく、冷静で複雑・地味な意見は無視されがちである。メディア内での過激なキャラクターの存在は影響が大きく、いっそう危険である。 メディアが熱くなるときは警戒する必要があるのだ。

 戦争がすべての災いをもたらしたという考えは充分ではない。我々の国民性や社会構造が戦争に加担し、より悲惨なものにしたという視点も必要なのではないだろうか。