ヤフーの知恵袋を使ったカンニング騒ぎがメディアを席巻している観があります。斬新な手口を使ったからといっても、ひとりの少年がカンニングをしただけのことです。興味本位のスポーツ紙や二流の民放ならともかく、NHKや一流紙まで連日トップ報道するのは頭がおかしくなったとしか思えません。一流(とされる)メディアが予算案の衆院可決よりカンニングを優先するという状況は絶望的ですらあります。
夏目漱石も正岡子規も東大の登竜門だった大学予備門を受験するときカンニングをやったそうです。これらは産経抄に教えてもらいましたが、子規の話は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に書いてあったように思います。
カンニングは不正なことですが、非難するにも適切な程度というものがあります。節度のない報道は人を殺す刃(やいば)にもなります。浅田農産事件は微罪、あるいは道義的な責任に対する集中報道によって2人の関係者が自殺に追い込まれた例です。もしこの受験生やその関係者が自殺する事態にでもなれば責任の大半はメディアにあると言ってよいでしょう。
聖書に「罪なきものは石もてこの女を打て」という言葉があります。私は少年に石を投げることができない立場ですが、年端も行かぬ少年を追及するのに熱心なメディアの記者達、また厳しい顔をしてコメントするコメンテーターのおっさん達は若い頃、カンニングなどの不正を一切しなかった潔白な方ばかりなのでしょうか。また大勢の大人がひとりの少年を追いかける行為を恥じる気持ちはないのでしょうか。
「正義面を引っ剥がせば、偽善者の顔が現れる」でなければよいのですが。
ケータイやネットを使うという手口の新らしさがメディアの興味を惹きつけたのだと思われますが、ほとんどすべてのメディアが同じ価値判断で共振するように動くのはたいへん不気味です。あらゆるメディアがイエロージャーナリズム、あるいは赤新聞になったような気がします。不正を糾弾するという体裁をとっていても、報道の実態は飽くなき好奇心に訴えるものと言えるでしょう。
雪印食品、雪印乳業、不二家、浅田農産、吉兆と、メディアによる非難の旋風が繰り返されました。共通していることはいずれも日本中が騒ぐほどの罪を犯してないことです。メディアの煽るような報道に視聴者・読者が反応し、それにまたメディアが反応して増幅されていくといった循環のメカニズムがあるのかもしれません。
恐ろしいはすべてのメディアが付和雷同するような大きな波ができあがると社会から冷静な思考が失われてしまうことです。戦前・戦中は新聞・ラジオが長期にわたってそのような状態にあった現象と理解してもよいでしょう。
(あと書き)
この問題について朝日新聞は5日の社説で次のように述べています。
『今思うと、ネットの進化についてゆけない大人社会が、過剰に反応した面はないだろうか』
はて、過剰反応したのは連日トップで報道した朝日をはじめとしたメディアの筈です。過剰反応に対する反省の気持ちは感じられますが、それを大人社会のせいにするのは責任転嫁というものです。なんとも見事な厚顔無恥ぶりであります。
夏目漱石も正岡子規も東大の登竜門だった大学予備門を受験するときカンニングをやったそうです。これらは産経抄に教えてもらいましたが、子規の話は司馬遼太郎の「坂の上の雲」に書いてあったように思います。
カンニングは不正なことですが、非難するにも適切な程度というものがあります。節度のない報道は人を殺す刃(やいば)にもなります。浅田農産事件は微罪、あるいは道義的な責任に対する集中報道によって2人の関係者が自殺に追い込まれた例です。もしこの受験生やその関係者が自殺する事態にでもなれば責任の大半はメディアにあると言ってよいでしょう。
聖書に「罪なきものは石もてこの女を打て」という言葉があります。私は少年に石を投げることができない立場ですが、年端も行かぬ少年を追及するのに熱心なメディアの記者達、また厳しい顔をしてコメントするコメンテーターのおっさん達は若い頃、カンニングなどの不正を一切しなかった潔白な方ばかりなのでしょうか。また大勢の大人がひとりの少年を追いかける行為を恥じる気持ちはないのでしょうか。
「正義面を引っ剥がせば、偽善者の顔が現れる」でなければよいのですが。
ケータイやネットを使うという手口の新らしさがメディアの興味を惹きつけたのだと思われますが、ほとんどすべてのメディアが同じ価値判断で共振するように動くのはたいへん不気味です。あらゆるメディアがイエロージャーナリズム、あるいは赤新聞になったような気がします。不正を糾弾するという体裁をとっていても、報道の実態は飽くなき好奇心に訴えるものと言えるでしょう。
雪印食品、雪印乳業、不二家、浅田農産、吉兆と、メディアによる非難の旋風が繰り返されました。共通していることはいずれも日本中が騒ぐほどの罪を犯してないことです。メディアの煽るような報道に視聴者・読者が反応し、それにまたメディアが反応して増幅されていくといった循環のメカニズムがあるのかもしれません。
恐ろしいはすべてのメディアが付和雷同するような大きな波ができあがると社会から冷静な思考が失われてしまうことです。戦前・戦中は新聞・ラジオが長期にわたってそのような状態にあった現象と理解してもよいでしょう。
(あと書き)
この問題について朝日新聞は5日の社説で次のように述べています。
『今思うと、ネットの進化についてゆけない大人社会が、過剰に反応した面はないだろうか』
はて、過剰反応したのは連日トップで報道した朝日をはじめとしたメディアの筈です。過剰反応に対する反省の気持ちは感じられますが、それを大人社会のせいにするのは責任転嫁というものです。なんとも見事な厚顔無恥ぶりであります。