江戸後期の狂歌師太田南畝 ( おおたなんぽ ) は、
「 坂を下るに赤土の岸あり。
松の並木をゆくゆく坂を上り下りて、
また坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ。 」 と、
その紀行文 ( 小春紀行 ) に、
この 「 曲里の松並木 」 あたりの描写をしている。
この松並木は当時幕府が全国の街道に
松や杉を植樹させた名残で、
日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中山道)、
さらに箱根の杉並木(東海道)が、その代表的なものである。
昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて
街道には多くの松を残していたが、
今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の面影を留めているのみで、
当時の松も残り2本となった。
なお、史跡の指定範囲は幅20~30メートル、
長さ約310メートル、面積約8000平方メートルで、
現在旧街道緑地として整備されている。