キリシタンが投獄された楠原牢屋敷跡
1868(明治元)年末、久賀島から始まった五島崩れは
クリスマスの日に水ノ浦におよび、
まもなく楠原のキリシタンも取り調べをうけて、
仮牢となった帳方・狩浦喜代助宅に投獄された後、水ノ浦の牢に移された。
牢屋となった屋敷の材木は、1954(昭和29)年、
水ノ浦修道院楠原分院の1階に使用され、
1995(平成7)年に解体され、翌年、牢屋跡横に、
残された材木で牢屋が縮小復元された。
敷地内には、1971(昭和46)年、
「信仰の自由100周年記念祭」の時に立てられた「祈りの像」がある。
元治2(1865)年長崎の地で世界中を驚かせる信徒発見の日を迎え、
五島のキリシタンたちも、次々と長崎のプチジャン司教の元を訪れ、
五島の津々浦々に待ちに待った神父到来の報が伝えられました。
しかし喜びもつかの間、五島では明治に入る頃から
信徒への弾圧が始まり楠原も例外ではなく、
捕えられ帳方の家が牢にあてられました。
北風の吹きすさぶ寒い季節でしたが、
着物一枚しか身に着けることを許されず、
夜具もなく、着のみ着のままで過ごさねばなりませんでした。
信徒達は寒さに震えながらも互いにロザリオを祈り、
励ましあって殉教も覚悟していたといいます。
やがて水ノ浦の牢に移され、棄教を迫る役人の残酷な拷問が待っていました。
あまりの苦痛に泡を吹いて気を失う者もいました。
明治6(1873)年、禁教の高札が撤去され、
ようやく捕縛や入牢はなくなりました。
牢屋敷当時の柱材の一部は、
お告げのマリア修道会楠原分院の建物の一部として
約40年間使用されましたが、修道院の解体に伴い、
平成8年に復元された現在の牢屋敷跡に使われ当時の名残をとどめている。
ファチマの聖母と牧童
殉教地を見守る ” 男性的教会 ”
大村藩(現在の長崎市外海方面)から移住してきた潜伏キリシタン第一陣108名のうち、
一部の者は楠原に住み着きました。
彼らは五島と大村の藩主の了解のもと家老の指図で送られたもので、
移住当時は御用百姓として優遇されました。
明治10(1877)年になると、
パリ外国宣教会の宣教師が来島し五島への布教が始まりました。
楠原の信徒たちもまだ貧しい生活でしたが、
外国人神父の指導もあり教会建築の費用として
長年にわたる積み立てを始めました。
明治45(1912)年、教会建築の名工鉄川与助により、
3年の歳月をかけて完成したのが現在の楠原教会です。
内部はリブ・ヴォールト天井、外観はレンガ造りのゴシック様式で、
下五島に現存する教会としては、堂崎教会に次ぐ2番目に古い教会です。
信徒たちも教会建設のためにお金を捧げるのはもちろんですが、
整地作業や建築資材を寺脇の山奥から伐採し
運び出すなど危険を伴う作業もいといませんでした。
また外壁に使用する赤レンガは、
購入後船で運ばれ奈切の浜に積み上げられていたのを、
小学校に通う子ども達が学校帰りに持てる数だけ運び手伝いました。
女性達は浜で集めた蜷殻を焼き漆喰用の石灰を手作りし、
男性達は基礎工事用の石材やコンクリート工事用の資材の運搬を受け持つなど、
骨の折れる仕事も喜んで行いました。
こうして完成を見た楠原教会は大正2年、
コンパス司教により祝別、献堂式が行われました。
楠原の信徒ばかりでなく、水ノ浦小教区全体にとっても大きな喜びであり、
盛大な落成式であったと伝えられています。
その後年月の経過と共に楠原教会は徐々に傷みが出始め、
その都度部分的な補修が行われていましたが、
昭和43年には祭壇部分を含め大がかりな増築、
補修工事が行われ現在に至っています。
境内にはファチマの聖母と牧童達のかわいい像を配した一角があり、
こちらも祈りの場になっています。
所在地 / 長崎県五島市岐宿町東楠原
教会の保護者 / 聖家族