Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

保存資料の感情移入する名技性

2010-01-19 | 雑感
CDの無料配達の案内が入っていたので注文した。木曜日に注文して土曜日には届いた。合わせてCD三枚で十ユーロほどカードで支払った。

いつもの如くバーゲン製品から選り繕ったのだが、もう少しで重なる商品を注文するところだった。CD購入は基本的にはレパートリーの手薄なエポックから保存資料として手元においておく商品を選択するので、その中でも中世の音楽となると曲名などは全く覚えていない場合が多い。

精々、どのような写本によってどの時代の曲が集められて再現されているかぐらいの知識でしかそうしたものを選択していない。もちろんそのような作業をして立派な実践をしている演奏団体や研究者音楽家の制作は限られているので、直ぐにどの制作の録音かは思い出すのだが、商品として違うタイトルやジャケットなどが添えられていたら殆どお手上げである。

一般的にこうした分野では制作CDのタイトルを変えること少ないのだが、廉価二枚組みのCDの一枚のタイトルは見落としてしまうことが多々ある。そうした一枚がまた他の一枚と変えて組み合わされているとなると殆どその内容は思いつかなくなる。その通り、興味を持って籠に入れたものは既に所有していたのである。当然の事ながらその三枚全てを十分には聞いておらず、先に購入したものに引かれて安売りで追加購入しておいた商品でしかないのだ。

そうした「難しい」選択に比べると、通常レパートリーの人気オペラなどは安いと一気に売りきれてしまうようである。ドレスデンのシュターツオパーがハイティンクの指揮で演奏した「バラの騎士」の三枚組八ユーロはデジタル録音であり籠に入れておいたら直ぐに消えていた。

購入した一つの二枚組みは、こちらはバロック初期にルネッサンスの頂点を極めた所謂フランドル楽派の多声音楽に対して、歌詞の音律などを基本にその音楽を形成して行くとするセコンダ・プルラティカ様式にあたる音楽を書いた未知の作曲家四人のアルバムである。その音楽は、その様式の代表格となるモンテヴェルディを髣髴させるもので、オペラではないのでそこから歌詞を取り去り、当時ソロ楽器と発展し始めたヴァイオリンの名人芸などを頼りに、その感情移入された音楽を器楽で表現している。要するに、この様式の代表者をモンテヴェルディとする場合、それに対応する器楽でのそれはこうしたモノディー様式と呼ばれる表現に他ならない。丁度二十世紀になってアルザスの作曲家ケックランがそれを遣ったように楽器が語る音楽となる。

その意味からは、プリマ・プラティカからバロックへと移行する過程において、ラッソーやパレストリーナなどの旧主派や後進地の作曲家の復古的な仕事振りが ― 要するに彼らには嘗てのような全幅の信頼感に基づいた確信に代わって殆ど魂胆のようなドグマが生じて、それが感情移入を可能とする芸術表現となっている ―、大きく影響しているのが実感できる。もう一つ購入したCDは、スペインのヴィクトリアの多声音楽であって、丁度その後者にあたる。


購入CDs:
Giovanni Battista Fontana: Sonaten Nr. 1-18
Tomas Louis de Victoria: Tenebrae Responsories
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする