走るのは日曜日以来であった。水曜日に左肩を痛めたので無理してでも走った。寒くて眠かったが、沢沿いの往路が11分1967歩と1844歩の片道記録に近づいていて、往復としては記録である。なぜ早かったかは分からないが、向こうから来る林業のトラクターをかわし、いつもの犬の散歩のオヤジに「Tシャツでは寒いだろう」と言われた後ぐらいから、これは12分で走れるという気がしたのだ。夜中は氷点下となっていたこともあり、凍りそうなのに対抗するのと、肩の痛みをほぐしたくて無理やりに腕を振って走ったからだ。それでも体調はあまりよくなかったので、往復23分3938歩は十分過ぎる記録である。どうもこの区間往復での記録らしい。25分を切れるようになったのが一月末の24分4066歩であったからここ二月ほどで明らかにテムポが上がっている。息苦しくなる前に自然に呼吸を深く出来るような感じになってきている。
一月のバーデン・バーデンでのピエール・ブーレーズ生誕九十年記念コンサートで、小学生たちに十二音の作品「ノタシオン」を踊らしていたが、そのときに紹介されたホームページがようやく分かった。新聞に記事として載せてくれたからである。この曲は、管弦楽曲化されて最も演奏される機会の多いブーレーズ作曲の大管弦楽作品となってしまったが、その原曲のアナリーゼをしたサイトである。楽譜とそのときに演奏していたピアニストによる演奏が組み合わされて表示されるために分かりやすく、そのアナリーゼを作曲家自身がヴィデオで話しており、英語と独語の字幕つきである。十二音音楽の理解の仕方として最も代表的で且つ通常の和声分析に疎い音楽教育を受けていない人にも分かり易い方法である。俗に言われるように、音楽家などの和声教育を受けている人よりもそうではない人の方が十二音音楽を速やかに理解すると言う説の裏づけのようなものだ。そこで、ブーレーズ自身が面白いことを語っている。要するに「分析力のない音楽家がつまり音出しで感覚的に楽曲を捕らえようとすることが多いが、長く複雑になれば不経済だ」と、実は教育が理解を阻害しているのではなくてそのような頭の悪い音楽家が多いことを暴露しているのである。
ここからは予断だが、プロの演奏家で革新的な作風の新曲を初演していないような音楽家は、インタヴューなどや書いたものを読むと如何にその人物の知能程度が低いかが知れることが多い。何も革新的な作風や創作が芸術的にまた美学的に価値があるとは限らないのだが、そのようなしばしばこの手の演奏者が主張する言説「調性のシステムにおける協和の美しさの芸術音楽」のその本質は村の音楽隊やブラスバンドの和声感覚でとても質の低い協和を聞いていることが多いようである - 質の良い感覚を持っていればその程度の音楽を奏でて満足している筈がないのである。そのような直感の人に調性音楽の叙述法など分かる訳がないのである。
ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニカーが喝采を受けるのは、まさしくその管弦楽団のサウンドの可能性や質であって、管弦楽演奏が芸術活動とするならばその質こそが問題となるのである。そしてその質にまで達している管弦楽演奏などはそれほど多くはなくて、その多くがエンターティメントとして扱われる所以なのだ。管弦楽演奏の制作録音においても芸術的な価値が認知されるものはそれほど多くはないのである。
参照:
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音
一月のバーデン・バーデンでのピエール・ブーレーズ生誕九十年記念コンサートで、小学生たちに十二音の作品「ノタシオン」を踊らしていたが、そのときに紹介されたホームページがようやく分かった。新聞に記事として載せてくれたからである。この曲は、管弦楽曲化されて最も演奏される機会の多いブーレーズ作曲の大管弦楽作品となってしまったが、その原曲のアナリーゼをしたサイトである。楽譜とそのときに演奏していたピアニストによる演奏が組み合わされて表示されるために分かりやすく、そのアナリーゼを作曲家自身がヴィデオで話しており、英語と独語の字幕つきである。十二音音楽の理解の仕方として最も代表的で且つ通常の和声分析に疎い音楽教育を受けていない人にも分かり易い方法である。俗に言われるように、音楽家などの和声教育を受けている人よりもそうではない人の方が十二音音楽を速やかに理解すると言う説の裏づけのようなものだ。そこで、ブーレーズ自身が面白いことを語っている。要するに「分析力のない音楽家がつまり音出しで感覚的に楽曲を捕らえようとすることが多いが、長く複雑になれば不経済だ」と、実は教育が理解を阻害しているのではなくてそのような頭の悪い音楽家が多いことを暴露しているのである。
ここからは予断だが、プロの演奏家で革新的な作風の新曲を初演していないような音楽家は、インタヴューなどや書いたものを読むと如何にその人物の知能程度が低いかが知れることが多い。何も革新的な作風や創作が芸術的にまた美学的に価値があるとは限らないのだが、そのようなしばしばこの手の演奏者が主張する言説「調性のシステムにおける協和の美しさの芸術音楽」のその本質は村の音楽隊やブラスバンドの和声感覚でとても質の低い協和を聞いていることが多いようである - 質の良い感覚を持っていればその程度の音楽を奏でて満足している筈がないのである。そのような直感の人に調性音楽の叙述法など分かる訳がないのである。
ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニカーが喝采を受けるのは、まさしくその管弦楽団のサウンドの可能性や質であって、管弦楽演奏が芸術活動とするならばその質こそが問題となるのである。そしてその質にまで達している管弦楽演奏などはそれほど多くはなくて、その多くがエンターティメントとして扱われる所以なのだ。管弦楽演奏の制作録音においても芸術的な価値が認知されるものはそれほど多くはないのである。
参照:
二十世紀中盤の音響化 2015-02-07 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
嵐過ぎ去って、その後 2015-04-02 | 音