車中のラディオはニューヨークに移住して活躍しているおそらくユダヤ系のドイツのヴァイオリニストが出演していた。そこでは、共演する米国とドイツの管弦楽団の相違が質問されていて、お客さんへの態度へと話題が進んだ。演奏会では、専門家から初めてコンサートに訪れるお客さんまでを相手にするということである。そうした聴衆に広く語りかける力をサイモン・ラトル指揮のベルリンのフィルハーモニカーは十二分に示していた。
今回の「ファウストの劫罰」は、週が変わって本拠地フィルハーモニーで合唱団を変えて演奏されるようだ。この曲にかかわらずベルリオーズの創作への人気や評価はあまり安定しておらず、幻想交響曲以外では頻繁に演奏される曲は決まっており、この曲においても当時の演奏会での成功を考えて、ゲーテ原作「ファウスト」の設定を変えてでもラコッツィー行進曲を入れ込むなどの努力がされているように、今でも序曲などが演奏されるに留まっている。そうした中で、故コリン・デーヴィスが全集を録音するなど、ここでも英国人の活躍があって、サーの称号を持つラトルもそれを強く意識しているのである。ラディオに戻れば、ドイツではドイツ語圏の音楽文化がどうしても基本となるが、特に合衆国ではそのような歴史が無いためにシベリウスの交響曲などの演奏が頻繁だとする話に通じるものがある。
そこで、ベートーヴェンと同時代性のあるベルリオーズの面白さは今更演奏会で取り上げるだけの価値があるかという問い掛けがなされる。
少なくとも次の三箇所は、なにもベルリオーズの管弦楽法がリヒャルト・シュトラウスのそれの基本であり、我々が知っている近代管弦楽団を意味つけるそのものであることを差し引いても、生演奏であるからこそ典型的な例として特筆されるものであろう。もちろん、今回参考にしたメディア「モネー劇場でのオペラ上演」、「プロミスでのシカゴ交響楽団」、「ケント・ナガノ指揮の制作録音」でも、当日のオリエンテーションであったような、半音階進行による無調性の多用や利用などの和声的分析に相当する工夫は認知されたのだが、やはり譜面はその通りであってもメディアでは音響としては認知できないものなどがあるのだ。
第二部第六景のアーメンコーラスの後をメフィストフェレスが取り継ぐところで、電光石化動機に続いて半音階下降進行をトロンボーンがレガートで吹くのだが、今回は惜しげもなくスライドさせて吹かせていた。これなども、ホルンやハープのハーモニックスとともにあのグスタフ・マーラーのグリッサンドを先行しているのだ。それ以外にも第四部ヴァイオリンのマンドリンピチッカートでも視覚的な効果をあげるのに似ている。
第七景の「妖精の踊り」では長いDの基音がコントラバスで流し続けられるが、この効果などもオリエンテーリングで話題となった麻薬による覚醒効果の一つとしての時間的な尺度の混濁 - 裁断・重ね合わせとモンタージュ - としても良いのだが、実際の創作はその和声効果としてグスタフ・マーラー第一交響曲顔負けの倍音成分の饗音として扱われている。作曲者がコントラバスの倍音成分を指揮者として熟知しているからこその技法であったろう。その終結の印象的なことは、なかなかマイクで捉えられていない - 勿論アンサムブルの音の粒が揃うからこそ出来るのだが。
もう一つは、地獄落ちの銅鑼の使い方で、それの本当の音響効果はその共振にあるわけだが、それはまさに後期ロマンティズムを超えて二十世紀の音楽そものなのである。そこでご当地の作曲家ブーレーズのことを思い出せば、そのまま先日ヴォルフガンク・リームが「主の居ない鎚」にコメントした中声域の利用への言及が、ここでのソロのイングリッシュホルンや多用されるヴァイオラに重なるのである。
こうした大管弦楽団の音楽監督がリヒャルト・シュトラウスを十八番としているようでは全く其処から抜け出ることは無くて、管弦楽団が如何に今後継続して存続していく可能性があるかの問いかけには全く答えがないのである。これがベルリンの交響楽団がなぜサイモン・ラトルを必要としたかの結論であり、幸か不幸か前任者クラウディオ・アバドはそこへの道をつけたのに他ならないのであった。
復活祭の鐘がなり、リヒャルト・シュトラウスを超えてと、バーデン・バーデンへの旅のプログラムを組み入れたフィルハーモニーの定期演奏会の核はこのような按配で作られていて、サイモン・ラトルの意志の高さがそこに垣間見れるのみならず、それが実現化しているのをこうして皆が実感するに至るのである。最初にこの交響楽団を指揮したのを聞いたのは二十年ほど前のショスタコーヴィッチの第八番交響曲だった。そのフォルテの鳴らし方に失望した覚えがあるが、そのころとは流石に全く異なっていて、上のようにベルリオーズが演奏されることで、たとえシュテッツガルトの劇場合唱団のフランス語に不満があるとしても、ヴァークナーの楽劇並みに聴衆を魅了することが出来るのであった。ここで、その管弦楽団ではなく指揮者にその喝采が集まるのは当然のことでもあるのだ。
来年は、トリスタンや第九がプログラムに並んでいる。一先ずこの辺りで、音楽監督としての総決算を示そうとしているようで、目が離せなくなってきている。既にその完成域をここに見ているのだが、ライヴストリームどころか通常のCDでは再現不能なものばかりである。よほど投資をしなければそれを記録することは出来ないが、そのような市場などはもはや無い。その辺りにもこの交響楽団との協調作業の限界が見えてくるだろう。
参照:
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
復活祭日曜日の動機付け 2015-04-06 | 暦
今回の「ファウストの劫罰」は、週が変わって本拠地フィルハーモニーで合唱団を変えて演奏されるようだ。この曲にかかわらずベルリオーズの創作への人気や評価はあまり安定しておらず、幻想交響曲以外では頻繁に演奏される曲は決まっており、この曲においても当時の演奏会での成功を考えて、ゲーテ原作「ファウスト」の設定を変えてでもラコッツィー行進曲を入れ込むなどの努力がされているように、今でも序曲などが演奏されるに留まっている。そうした中で、故コリン・デーヴィスが全集を録音するなど、ここでも英国人の活躍があって、サーの称号を持つラトルもそれを強く意識しているのである。ラディオに戻れば、ドイツではドイツ語圏の音楽文化がどうしても基本となるが、特に合衆国ではそのような歴史が無いためにシベリウスの交響曲などの演奏が頻繁だとする話に通じるものがある。
そこで、ベートーヴェンと同時代性のあるベルリオーズの面白さは今更演奏会で取り上げるだけの価値があるかという問い掛けがなされる。
少なくとも次の三箇所は、なにもベルリオーズの管弦楽法がリヒャルト・シュトラウスのそれの基本であり、我々が知っている近代管弦楽団を意味つけるそのものであることを差し引いても、生演奏であるからこそ典型的な例として特筆されるものであろう。もちろん、今回参考にしたメディア「モネー劇場でのオペラ上演」、「プロミスでのシカゴ交響楽団」、「ケント・ナガノ指揮の制作録音」でも、当日のオリエンテーションであったような、半音階進行による無調性の多用や利用などの和声的分析に相当する工夫は認知されたのだが、やはり譜面はその通りであってもメディアでは音響としては認知できないものなどがあるのだ。
第二部第六景のアーメンコーラスの後をメフィストフェレスが取り継ぐところで、電光石化動機に続いて半音階下降進行をトロンボーンがレガートで吹くのだが、今回は惜しげもなくスライドさせて吹かせていた。これなども、ホルンやハープのハーモニックスとともにあのグスタフ・マーラーのグリッサンドを先行しているのだ。それ以外にも第四部ヴァイオリンのマンドリンピチッカートでも視覚的な効果をあげるのに似ている。
第七景の「妖精の踊り」では長いDの基音がコントラバスで流し続けられるが、この効果などもオリエンテーリングで話題となった麻薬による覚醒効果の一つとしての時間的な尺度の混濁 - 裁断・重ね合わせとモンタージュ - としても良いのだが、実際の創作はその和声効果としてグスタフ・マーラー第一交響曲顔負けの倍音成分の饗音として扱われている。作曲者がコントラバスの倍音成分を指揮者として熟知しているからこその技法であったろう。その終結の印象的なことは、なかなかマイクで捉えられていない - 勿論アンサムブルの音の粒が揃うからこそ出来るのだが。
もう一つは、地獄落ちの銅鑼の使い方で、それの本当の音響効果はその共振にあるわけだが、それはまさに後期ロマンティズムを超えて二十世紀の音楽そものなのである。そこでご当地の作曲家ブーレーズのことを思い出せば、そのまま先日ヴォルフガンク・リームが「主の居ない鎚」にコメントした中声域の利用への言及が、ここでのソロのイングリッシュホルンや多用されるヴァイオラに重なるのである。
こうした大管弦楽団の音楽監督がリヒャルト・シュトラウスを十八番としているようでは全く其処から抜け出ることは無くて、管弦楽団が如何に今後継続して存続していく可能性があるかの問いかけには全く答えがないのである。これがベルリンの交響楽団がなぜサイモン・ラトルを必要としたかの結論であり、幸か不幸か前任者クラウディオ・アバドはそこへの道をつけたのに他ならないのであった。
復活祭の鐘がなり、リヒャルト・シュトラウスを超えてと、バーデン・バーデンへの旅のプログラムを組み入れたフィルハーモニーの定期演奏会の核はこのような按配で作られていて、サイモン・ラトルの意志の高さがそこに垣間見れるのみならず、それが実現化しているのをこうして皆が実感するに至るのである。最初にこの交響楽団を指揮したのを聞いたのは二十年ほど前のショスタコーヴィッチの第八番交響曲だった。そのフォルテの鳴らし方に失望した覚えがあるが、そのころとは流石に全く異なっていて、上のようにベルリオーズが演奏されることで、たとえシュテッツガルトの劇場合唱団のフランス語に不満があるとしても、ヴァークナーの楽劇並みに聴衆を魅了することが出来るのであった。ここで、その管弦楽団ではなく指揮者にその喝采が集まるのは当然のことでもあるのだ。
来年は、トリスタンや第九がプログラムに並んでいる。一先ずこの辺りで、音楽監督としての総決算を示そうとしているようで、目が離せなくなってきている。既にその完成域をここに見ているのだが、ライヴストリームどころか通常のCDでは再現不能なものばかりである。よほど投資をしなければそれを記録することは出来ないが、そのような市場などはもはや無い。その辺りにもこの交響楽団との協調作業の限界が見えてくるだろう。
参照:
伯林の薔薇への期待の相違 2015-03-29 | 音
主の居ない打ち出の小槌 2015-01-26 | 音
復活祭日曜日の動機付け 2015-04-06 | 暦