走行距離往復100kmなかった。やはり倍のバーデンバーデンに出かけるよりも時間的に楽だ。それでも帰宅が21時を過ぎていたのは、中継実況から省かれていたピアノのバッハアンコールがあったからで正味2時間を休憩を入れて裕に過ぎていた。二人のソリスツを入れるコンサートは結構稀である。
この指揮者ロートが率いる楽団レシェクレの演奏会は二日続けて、モーツェルトとリゲティを合わせて、ヴァイオリンのピアノの協奏曲を二曲づつ演奏した。毎日通うのも面倒で二日目だけに出かけた。
ヴァイオリンのイザベレ・ファウストはとても日本で人気のあるドイツのヴァイオリニストで、今回初めて聴く。初日はリゲティの協奏曲を弾いて、二日目はモーツァルトのト長調の協奏曲だけだった。それでもその人気の秘密も実力もよく分かった。
シュトッツガルトの人で地元の応援もあるのだが、此処まで一流舞台で活躍するようになるだけの努力をしている。それは古楽器奏法であるとかやはりやれることをやり尽くしているので、指揮者ロートがレクチャーで語っていた様に、古い音楽も新しい音楽もガット弦で弾いてしまう珍しい奏者で、いつも練習をしているので尋ねると恐ろしいと語っているというのだ。
そうした努力は演奏に表れていて、一寸した弓やアーティキュレーションを完成させるのにとても時間を掛けているのがよく分かる。特に一楽章のそれ等はとても上手くいっていて、それをやはり古楽器奏法も売りにしているこの楽団の演奏をとても喚起していた。
言い方を変えるとそれぐらいに喚起されないとこの楽団はそこ迄やれないこともよく分かった。一つは指揮者の責任でもあるのだろうが、楽団の弦楽陣もそこまでやり尽くせるアンサムブルには達していなかった。
それは、リゲティなどでは顕著で13楽器の為の協奏曲はソリスト的な要素も必要とするが、勿論この楽団よりも遥かに慣れていて上手に弾く楽団もあり、モーツェルトはこれまた近代的な超一級の室内楽団からバロックの専門楽団迄の数多い演奏形態と頂点の演奏を繰り広げる団体も少なくない。そういう中で興業的に成功しているのがなによりもの成果だろう。
全く同様にヴァイオリニストのファウストもそうした市場の中で独自の立場を築いてきていて、同時にそれを維持するための努力が手に取る様にとても見えるという事である。そうした意味合いからも親近感もその姿勢にも共感する聴衆も少なくないのだろうと思う。
アンコールで弾いたピーゼンデルのソナタは誰の曲かは知らなかったのだが、テレマンやバッハと同時代の作曲家でバイエンルのアンスバッハの楽団の小僧からトレッルリなどに習い、ドレスデンのカペレのマイスターをしていた人である。こうした選曲にも演奏者としての個性が感じられる。よくやっているというしかない。(続く)
参照:
清々するセンスのなさ 2024-02-17 | 文化一般
胸が高鳴るほどの期待 2024-03-29 | 音
この指揮者ロートが率いる楽団レシェクレの演奏会は二日続けて、モーツェルトとリゲティを合わせて、ヴァイオリンのピアノの協奏曲を二曲づつ演奏した。毎日通うのも面倒で二日目だけに出かけた。
ヴァイオリンのイザベレ・ファウストはとても日本で人気のあるドイツのヴァイオリニストで、今回初めて聴く。初日はリゲティの協奏曲を弾いて、二日目はモーツァルトのト長調の協奏曲だけだった。それでもその人気の秘密も実力もよく分かった。
シュトッツガルトの人で地元の応援もあるのだが、此処まで一流舞台で活躍するようになるだけの努力をしている。それは古楽器奏法であるとかやはりやれることをやり尽くしているので、指揮者ロートがレクチャーで語っていた様に、古い音楽も新しい音楽もガット弦で弾いてしまう珍しい奏者で、いつも練習をしているので尋ねると恐ろしいと語っているというのだ。
そうした努力は演奏に表れていて、一寸した弓やアーティキュレーションを完成させるのにとても時間を掛けているのがよく分かる。特に一楽章のそれ等はとても上手くいっていて、それをやはり古楽器奏法も売りにしているこの楽団の演奏をとても喚起していた。
言い方を変えるとそれぐらいに喚起されないとこの楽団はそこ迄やれないこともよく分かった。一つは指揮者の責任でもあるのだろうが、楽団の弦楽陣もそこまでやり尽くせるアンサムブルには達していなかった。
それは、リゲティなどでは顕著で13楽器の為の協奏曲はソリスト的な要素も必要とするが、勿論この楽団よりも遥かに慣れていて上手に弾く楽団もあり、モーツェルトはこれまた近代的な超一級の室内楽団からバロックの専門楽団迄の数多い演奏形態と頂点の演奏を繰り広げる団体も少なくない。そういう中で興業的に成功しているのがなによりもの成果だろう。
全く同様にヴァイオリニストのファウストもそうした市場の中で独自の立場を築いてきていて、同時にそれを維持するための努力が手に取る様にとても見えるという事である。そうした意味合いからも親近感もその姿勢にも共感する聴衆も少なくないのだろうと思う。
アンコールで弾いたピーゼンデルのソナタは誰の曲かは知らなかったのだが、テレマンやバッハと同時代の作曲家でバイエンルのアンスバッハの楽団の小僧からトレッルリなどに習い、ドレスデンのカペレのマイスターをしていた人である。こうした選曲にも演奏者としての個性が感じられる。よくやっているというしかない。(続く)
参照:
清々するセンスのなさ 2024-02-17 | 文化一般
胸が高鳴るほどの期待 2024-03-29 | 音