生中継放送を聴いた。休憩を挟んで余白を充分にとった三時間余りの番組だった。前半のヒット曲のメドレーに近いようなものはビッグバンドファンでなければ興味が薄いものだった。但しフィルハーモニーにマイクロフォンを立てた手の込んだ録音でCD化されたら評価が高いものとなるだろう。それでも前半から後半を聴き続けるのは辛かった。
放送局でも絶賛の第二部になってドイツェオパーの管弦楽団が出て来て、休憩時に楽員とアナウンスでティテュス・エンゲルの紹介があって、「インテリサイドからのアプロ―チであると同時にベースの奏者としてスイングできることが貴重」とされていた。
それは最初の曲「ハーレム」で発揮される。アルテュール・トスカニーニがニューヨークの作品を求めていたことから組曲をエリントンが委嘱を受けての作品で、エリントン自身がジャズを機会音楽から独立した音楽としての試みからの取り組みの中でルーザーヘンダーソンの管弦楽化でなった。結局トスカニーニは指揮することはなく1955年の完成版はカーネギーホールで初演されている。その十話ほどにエピソード化されている「ハーレム」をして作曲家は「そこの住民たちの取り分けハンサムな人達の街」と説明して、ラテン系、インディアン、アフロの各々の共同体のその多様性を描いているのである。
1943年に「ブラック、ブラウン、ベージュ」としてカーネギーホールで奴隷黒人のポエムが演奏されていた様であるが、ここで聴かれるその躍動感などは、同じニューヨーカーのユダヤ系ガーシュインの音楽などで知っているような哀愁漂うアフロアフリカンの雰囲気とは全く異なる。それは全く当事者視線が異なるといううことでしかないであろう。
ガーシュインとは異なりエリントンの場合は父親がボーイをしていたことからホワイトハウスでも仕事をしていたようで、子供の時からピアノを習う環境にあったというのがそこから知れる。つまり古典派から浪漫派への西欧音楽の流れを汲んでそこにアフロアフリカンのエキゾティックな音楽要素を加味したということになる。それが所謂サードストリームと称され合衆国におけるエリントンが活躍した半世紀の世界でのメディア支配の核になっていた音楽と当夜のプログラムには書いてある。
そうしたサブやポップカルチァーのエンタメと芸術音楽との差異をそちら側から示していることにはなるのだが、同時にエンゲルらが語るような今日の芸術音楽の流れとしてのサードストリーミングとアナログになる関係にあるだろうか。
それに関しては後半二曲目の「ナイトクリエイテァー」にヒントがある様にも思える。実は生中継でこれを流していると居眠りして仕舞っていた。夕方の雨の切れ目にさっと走って来て、新しい靴の二回目の使用を経験して、急いで一杯引っ掛けて食事をしたからでもあるが、なによりも音楽の流れの構造が見えないのでどうしても追えないというものがある。それはエリントンの通常のジャズピースにしてもそのコード進行にドラマテュルギー的なアドリブなしにはそれなりの道理が感じられないということでもある。
そしてその曲に関してエンゲルは、エリントンが如何にそこの具象的な像を描いていたかという解説をしていたのでもあった。(続く)
参照:
A Celebration for the "Duke" ー オンデマンド 第二部 — 1時間16分から
デュークの律動的力強さ 2024-09-17 | 音
「半糞有色黒人」の総譜 2022-09-27 | 音
放送局でも絶賛の第二部になってドイツェオパーの管弦楽団が出て来て、休憩時に楽員とアナウンスでティテュス・エンゲルの紹介があって、「インテリサイドからのアプロ―チであると同時にベースの奏者としてスイングできることが貴重」とされていた。
それは最初の曲「ハーレム」で発揮される。アルテュール・トスカニーニがニューヨークの作品を求めていたことから組曲をエリントンが委嘱を受けての作品で、エリントン自身がジャズを機会音楽から独立した音楽としての試みからの取り組みの中でルーザーヘンダーソンの管弦楽化でなった。結局トスカニーニは指揮することはなく1955年の完成版はカーネギーホールで初演されている。その十話ほどにエピソード化されている「ハーレム」をして作曲家は「そこの住民たちの取り分けハンサムな人達の街」と説明して、ラテン系、インディアン、アフロの各々の共同体のその多様性を描いているのである。
1943年に「ブラック、ブラウン、ベージュ」としてカーネギーホールで奴隷黒人のポエムが演奏されていた様であるが、ここで聴かれるその躍動感などは、同じニューヨーカーのユダヤ系ガーシュインの音楽などで知っているような哀愁漂うアフロアフリカンの雰囲気とは全く異なる。それは全く当事者視線が異なるといううことでしかないであろう。
ガーシュインとは異なりエリントンの場合は父親がボーイをしていたことからホワイトハウスでも仕事をしていたようで、子供の時からピアノを習う環境にあったというのがそこから知れる。つまり古典派から浪漫派への西欧音楽の流れを汲んでそこにアフロアフリカンのエキゾティックな音楽要素を加味したということになる。それが所謂サードストリームと称され合衆国におけるエリントンが活躍した半世紀の世界でのメディア支配の核になっていた音楽と当夜のプログラムには書いてある。
そうしたサブやポップカルチァーのエンタメと芸術音楽との差異をそちら側から示していることにはなるのだが、同時にエンゲルらが語るような今日の芸術音楽の流れとしてのサードストリーミングとアナログになる関係にあるだろうか。
それに関しては後半二曲目の「ナイトクリエイテァー」にヒントがある様にも思える。実は生中継でこれを流していると居眠りして仕舞っていた。夕方の雨の切れ目にさっと走って来て、新しい靴の二回目の使用を経験して、急いで一杯引っ掛けて食事をしたからでもあるが、なによりも音楽の流れの構造が見えないのでどうしても追えないというものがある。それはエリントンの通常のジャズピースにしてもそのコード進行にドラマテュルギー的なアドリブなしにはそれなりの道理が感じられないということでもある。
そしてその曲に関してエンゲルは、エリントンが如何にそこの具象的な像を描いていたかという解説をしていたのでもあった。(続く)
参照:
A Celebration for the "Duke" ー オンデマンド 第二部 — 1時間16分から
デュークの律動的力強さ 2024-09-17 | 音
「半糞有色黒人」の総譜 2022-09-27 | 音
かなり長い実況だったのですね。
(前確か60年代から70年代にかけて大量のアメリカのジャズミュージシャンが渡欧したことは書き込みさせて頂きましたが)エリントンへの敬意がこもった放送内容だったのでしょうね。
合衆国から連邦共和国に移住したピアニストでマルウォルドンという人がいるのですが彼は確かケルンに居を定めて充実した演奏活動を行ったようです。彼の場合はまだ61年から62年にかけて件のマルチリード奏者のエリックドルフィーと名演を残しているのでもしかするとエリックドルフィーからヨーロッパでのアメリカ出身のジャズマンが好待遇されている状況を聞いていたのかもしれません。
因みに例えばバーデンだとレーラッハのジャズフェスティバルでフリージャズのサックス奏者のアルバートアイラ―の60年代半ばのライヴをYoutube上でみかけた記憶があるのですがレーラッハは立ち寄られたことはありますでしょうか。
「不審な男が見下ろす街」
https://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/e/40721ba861ad0cd9764179b035ed5164
前回のミンガスと同じように戦前のビッグバンドから作曲家としてのそれを掘り起こす作業がここで行われていて、サードストリームは決して100年前の道ではなく今日の音楽の可能性であるという芸術的な背景があります。
その意味でも指揮者エンゲルは第一人者でもあり得ます。
その点でハリス副大統領が挙げたのにも可也の見識があると思いました。要するにアフロアフリカンということであまりに容易に捉えていたのではないかという。